ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神は惜しまれる

 

  ヨナは預言者でした。神の声を正しく聞き取る、神に忠実な預言者でした。イスラエルの王も民も神に逆らい、好き勝手に歩んでいる時も、神の声を聞き、神に従いました。

 

  神は、イスラエルを苦しめる敵国アッシリアの都市ニネべに行って、ニネべの滅びを宣告し、滅びを免れるために、天地万物を造られたまことの神に悔い改めて立ち返ることを告げるようにと、ヨナに命じられました。

 

  イスラエルの預言者が、他の神々を拝む異邦人に遣わされることは、ユダヤ人にとって屈辱的なことです。ユダヤ人の批判と蔑みの的になるでしょう。敵国の滅びを免れさせる手伝いなんて有り得ないことです。敵国には、敵国に相応しい対応があるはずです。

 

  ヨナにはわかっていました。神がこの命令をするからには、ニネべを滅びから救うつもりなのだ、ということが。滅びの対象となるほどに、ニネべは神から遠く離れて、神の前に罪を重ね、神を怒らせているのです。だったら、その報いとして、ニネべを滅ぼした方が、全能の神の聖なることが明らかになって、周囲の国々にも、神を恐れさせることが出来るのではないでしょうか。

 

  ユダヤ人の律法に厳格で、イスラエルの民のために神のことばを取り次ぐ預言者には理解できないことでしょう。しかし、ヨナには神のご意思が伝わりました。ヨナは神の御心を知り、従えない自分自身と格闘しました。

 

  ヨナは主の御顔を避けて、ヨッパに下り、ニネべとは逆方向に行く船に乗りました。イスラエルの神が、イスラエルの敵国を救うなんてことがあってはならない。今まで、神はイスラエルを苦しめた国々に災いを与えてくださったではないか。神に守られて来たイスラエル。神はいつも御自分の民イスラエルに忠実でした。

 

  しかし、神は、その船に災いを起こし、ヨナを海に投げ落とすように仕向けられました。イスラエルの神は、全人類の神です。ユダヤ人だけの神ではありません。すべてのものは、この全能の神によって造られたのです。

 

  神はヨナを大きな魚の腹の中で生き延びさせました。ヨナは、真っ暗な魚の腹の中で、神に叫びました。恐れと苦しみの中で、「救いは主のもの」だとわかったのです。

 

  三日三晩、魚の腹の中にいたヨナ。主は、魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させました。ニネべと逆方向の船に乗ったヨナでしたが、主のはからいで、大魚の腹の中に入れて、ニネべの近くに運ばれたのです。

 

  大魚の腹の中で、神に従うことを誓ったヨナは、自分の感情とは裏腹に、ニネべの町を一日中歩き回って叫びました。「もう四十日すると、ニネべは滅ぼされる!」

 

  ニネべの人々は、ユダや人の預言者の声に耳を傾け、神を恐れました。彼らは、王から身分の低い者まで、イスラエルの神のことばにへりくだりました。家畜に至るまで断食して悔い改めたのです。

 

  神は、ヨナのことばを聞いたら、彼らが悔い改めるように、と働いておられたのです。彼らの心には、敵ながらイスラエルを守られる神の存在を知っていたのでしょう。イスラエルには神がおられる。神がともに戦い、イスラエルを守っておられる。彼らは、イスラエルの神を天地万物を造られた偉大な神であると恐れていたと思われます。

 

  現在もイスラエルが攻撃される時、世界中のクリスチャンが祈ります。「どうか、被害を最小限にしてください。せっかく、約束の地に帰って来たのに、血が無駄に流されることがありませんように。イスラエルの住民を守ってください。ミサイルが届きませんように。」すると、不思議なことが起こります。打ち込まれたミサイルは公園や人のいない所に落ちます。それで、命が守られています。

 

  打ち込んだ敵は、狙ったところに命中せず、的とは違う場所に落ちることが頻繁に起こるので、イスラエルには神がおられる。神が守っておられる、と感じるのだそうです。それなのに、ユダヤ人は神を意識しておらず、ラッキーだと思っているようで、残念です。敵の方が、神の存在を感じ、見えない神の手を見ているのですね。

 

 

  ニネべはヨナの語る偉大な神の御前にひれ伏し、悔い改めました。神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になって、災いを思い直し、彼らに災いを下されなかった。

 

  ヨナの感情は伴いません。そのことを神の栄光と捉えることは出来ません。大魚の腹の中で悔い改め、「救いは主のもの」とわかり、神のご意思にへりくだることを選択したはずなのに、納得がいきません。ヨナはすねました。

 

  すると、威厳ある神は、御自身の御思いを明かされました。

  「わたしは、この大きな町ニネべを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」

 

  私は、この聖句が好きです。ここに、神の愛の本質があります。異邦人も異教徒も神が造られたものです。たとい、神から遠く離れ、神を悲しませる存在であっても、真理を知らずに右も左もわきまえることの出来ずに彷徨う魂の行く末を憐れみ、痛み悲しんでおられるのです。

 

  イエスは言われました。ユダヤ人が、イエスがキリストである、というしるしを求めたからです。「おのおのが自分の思いに従って、神を捨て、神でないものを慕い求める、悪い姦淫の時代はしるしを求めます。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子(キリスト)も三日三晩、地の中にいるのです。」

 

  「ヨナがニネべの人々のために、しるしとなったように、人の子(イエス)がこの時代にしるしとなるからです。」

 

  ヨナが神のことばを語り、ニネべの人々がヨナの言葉を信じて神のことばにひれ伏すと災いが思い直されたように、イエスのことばを信じる者は、裁きが過ぎ越されるのです。

 

  神の子羊イエスの十字架の贖いの血によって罪が赦されることを信じ、三日三晩地の中にいて甦ったキリストの復活を信じる者は、その信じる通りのことがその人の身に起こるのです。イエスを信じる者は、死んでも甦り、永遠に生きるのです。

 

  それはしるしであって、神に悔い改めたニネべの人々が、神が災いを思い直されたことを知るように、神の裁きの時には、イエスを信じた者は、永遠に生きる者とされたことを実感するのです。

 

  神は、御子を信じる者が誰ひとり滅びることなく、信仰の勝利を得て、永遠のいのちを持つことを望んでおられます。ニネべの人々を惜しまれた神は、御子を信じる者の滅びを惜しまれます。

 

  また、神は、イスラエルの敵国の町ニネべを惜しまれたように、神の国に敵対する異教の民を惜しまれるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

    アマゾンkindle、紙書籍、楽天kobo