ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

この世に馴染めない

 

  家庭に馴染めない人、社会に馴染めない人、この世に馴染めない人は、どこか間違っているのでしょうか。他人と何が違うのでしょうか。

 

  自分の世界で生きる人もいます。自我は強くないのに、居場所がなく苦しんでいる人もいます。居場所とは、目に見える空間ではなく、目には見えない居心地の良さを求めているのです。

 

  目に見えない霊的なことに敏感な人です。この世は、この世の君(悪魔)が支配しています。この世の君の力が強く働く場所もあれば、そうでない場所もあります。一般的に、何か変だという感覚を持ちながらも、日々の事をこなしています。

 

  自分の深いところの求めとは違う流れに抗いながら、心を奮い立たせます。愚痴を言って発散させます。趣味や別の楽しみを持って、心の平衡を保ちます。

 

  しかし、自分をごまかすことを嫌う人もいます。自分に正直な人です。誰もが心の中にあることに正直に生きる、ということが出来ないのが、社会でもあります。それをしたらば、分裂が起きます。

 

  日本人は、和を重んじる民族です。他人と違うことに不安を覚えます。他人と違うことを貫くことに勇気が要ります。心が伴わなくても、皆に同調していれば、摩擦も争いもなく、何となく平穏無事に過ごせます。

 

  大人になると、若い時に抱いていた生きづらさも、少しずつ解消していきます。馴染めなかった社会の中で、何とか自分なりに生活しています。自分の思いに鈍感になる人もいれば、自分の思いを社会とは切り離して、個人レベルで見つめる人もいます。

 

  この世に馴染めなくても、この世で生きているのです。自然に死が訪れるまで生きることが、人としての基本的な務めだと、どこかで思っているからです。

 

  この世と馴染めない人の中には、何故生きているのか、自分が何をしたいのか、と目標も当てもなく生きることを苦しんでいます。

 

  目の前に置かれた、今日やるべき事をこなしている間は、その目の前の事に向かっている充実感のようなもので感覚は薄れていますが、ふっと何もない空っぽな感覚が襲います。

 

  それは、この世では埋められない場所が、その人のうちにあるからです。それをこの世に求めても見出すことは出来ません。霊的なものです。目に見えないものを、その人は必要としているのです。

 

  他人に言っても、理解される事ではありません。すべての人が求めているわけではないからです。今ここで生きているのに、自分はここには居ないような感覚は、皆が味わっているようなものではありません。

 

  変な事を言うと苦笑されたり、相手にされません。個人的な体験なのです。

 

  これはその人の魂の体験です。魂は霊的な存在と結ばれるものです。魂が目に見えるものが存在の実体ではないことを知っているのです。何故ならば、目に見えるものは、やがて消えてなくなるからです。魂は本当の実体を求めてさまよいます。いつまでも残る真実な存在にすがりたいのです。その存在と結ばれたいのです。

 

  この世と馴染めないのは、魂の感覚を捉えることが出来ているからです。救いと言う言葉に思い当たらなくても、確かにその魂は、この世からの救いを求めているのです。

 

  この世にどっぷりと浸かれる人は、この世の君と良い関係を築いているのかも知れません。しかし、この世の君に違和感を持ち、疑いを抱く人は、この世の君と結びついていないので、この世に疎外感を持つ人です。

 

  この世の君の民は、その人をこの世から追い出そうとします。仲間ではないからです。その人自身が自分は彼らの仲間ではない、と感じる以上に、彼らは敵視しています。

 

  その人にとって、この世は獄屋のように感じます。犯罪者のように蔑まれ、奴隷のように扱われ、自由がありません。生きる空間が限られ、息をするのにも周囲に気遣わなければなりません。

 

  うす暗い場所に身を隠し、うなだれます。光を求めても見出さず、希望と言う言葉すら思い起こすことが出来ません。

 

  芥川龍之介の本の『蜘蛛の糸』で、悪人が地獄の火の池で苦しんでいると、極楽のお釈迦様が、この人は生前蜘蛛を助けて良いことをしたということで、その人のところに、一本の蜘蛛(くも)の糸を垂らし、地獄から救い出してあげようとしたお話です。この男が垂らされた蜘蛛の糸を手繰って上ります。しかし、後から多くの罪人も必死になって上って来ます。男は、蜘蛛の糸が切れることを恐れて、後に続く人々を怒鳴りつけます。その途端、糸は切れて、皆真っ逆さまにもといた地獄に落ちてしまう、というお話です。

 

  誰でも、苦しみから救われたいのです。神も人を苦しみから救い出したいのです。それで、ひとり子の御子を世に遣わし、神の子羊イエスは生贄の羊となったのです。十字架で流された子羊イエスの血は、永遠の火の池で苦しむ魂の身代金です。身代金を支払われた魂は、火の池から出ることが出来るのです。

 

  イエスは、世から救い出す救世主です。この世の君に子羊イエスの血(イエスの命)と引き換えに、買い取られた魂をご自分の国(神の国)に戻されるのです。

 

  買い取られた魂とは、イエスがキリスト(救世主)であることを信じ、救い主イエスの御名にすがりつく者です。イエスの愛に応答し、イエスの愛の中に入り、イエスを愛する者です。

 

  イエスの愛の中に、この世の矛盾を認めることは正しいことであった事を知るのです。この世の中には本当の救いは無い事、本当の救いは、創造主であり、裁き主である神が用意された、イエス・キリストにあることを知るのです。イエスのことばが真理であり、真理はイエスご自身だからです。

 

  真理は、永遠に変わることのない真の光です。永遠に生かす愛であり、力です。自由と聖霊の喜びと愛と平安です。

 

  この世のものに、この世から救い出すことは出来ません。この世から救い出すものは、天から来られた神の御子イエスおひとりです。天から来られたので、天に引き上げることが出来るのです。

 

  この世と馴染めないのは、この真理と出会うためでした。魂が、真理を求めていたのです。真理を知り、受け入れると、帰るべき場所に帰ることが出来るという安らぎを得ます。探し求めていた心休まる居場所に辿り着く道を歩み、天上の喜びを経験します。

 

  この世に居ながら、天上に生きる者とされたからです。この世の苦しみの後、天上に迎え入れられるのです。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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