ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御自身で証される神

 

  世界には多くの神々があります。すべての神々は、設けられた神の座に鎮座しています。立派な神殿に鎮座している神もあれば、粗末な祠(ほこら)に鎮座する神もいます。

 

  ダビデは言います。

  「異邦の民の偶像は、銀や金で、人の手のわざです。口があっても語れず、目があっても見えません。耳があっても聞こえず、また、その口には息がありません。これを造る者もこれに信頼する者も皆、これと同じです。」 詩編135:15~18

 

  聖書の神、イスラエルの王である主、贖う方、万軍の主は言われます。

 

  「偶像を造る者は皆、虚しい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見る事も、知る事も出来ない。誰が、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。見よ。その信徒達は皆、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはおののいて共に恥を見る。

 

  鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。

 

  木で細工する者は、測り縄で測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。

 

  木は人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。

 

  その半分は火に燃やし、その半分で肉を焼いて満腹し、また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった』と言う。

  その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから』と言う。」

 

  神は、言われます。「彼らは真理を知りもせず、悟りもしない。彼らの目はこの世の君によって塞がれ、霊の目は閉じられており、彼らの心もこの世のもので塞がって、真理を悟ることも出来ない。

 

  彼らはそれが空しいことだと考えてもみず、神の知識も知恵もないので、『私は同じ一本の木から、パンを焼き、肉をあぶる火に燃やすものと、人の心をとらえる忌む物を造っている。何故、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか』とさえ言わない。

 

  灰(燃やせば灰になってしまう木の偶像)に憧れる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことが出来ない。」

 

  すると、それらの神々の民は、聖書の神の民に立ち向かいます。目に見えない神を自分達にもわかるように見せろ、と反撃し、聖書の神の実体はあるのか、と言います。

 

  「彼らの神(聖書の神)は、いったいどこにおられるのか」と国々は言います。しかし、聖書の神は、みずから答えられます。

 

  「わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。

  わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。

  それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、誰も救うものがいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。

  わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、災いを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 

  そのことば通りに、まだ神を見た事の無いユダヤ人に、彼らの神として御自身の御手のわざを現し、世界に離散させたユダヤ人を、彼らの祖先の地イスラエルに、再び集めておられます。

 

  目には見えない霊なる神ですが、イスラエルの家に聞こえるように、語っておられます。

  「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいても。国々の民の習わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。

  それは銀と金で飾られ、釘やつちで、動かないように打ち付けられる。

  それは、きゅうり畑の案山子のようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。災いも下せないからだ。」

 

  国々は、目に見える神を求めます。しかし、イスラエルに語りかけられる目に見えない霊なる神は、神々の上に立つ神、「主」と名乗られる神です。人間が造った神とは違い、天地万物を造られた、絶対的主権を持つ神です。

 

  聖書を信じる民は、「あなたの神は、いったいどこにおられるのか」と言う国々に答えます。

  「私達の神は、天におられ、主は望むところをことごとく行われる。その主権は永遠の主権。天の御国は代々限りなく続く。地に住む者は皆、無きものとみなされる。主は、天の軍勢も、地に住むものも、御心のままにあしらう。

 

  国々の偶像の神は銀や金で、人の手のわざである。口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があっても触れず、足があっても歩けない。喉があっても声をたてることも出来ない。

 

  これを造る者も、これに信頼する者も皆、これと同じである。」

 

  聖書の神は、神殿に鎮座される神ではなく、信じる者に語り掛け、御自身の御手のわざを見せて、御自身が生きて働く神であることを証されるのです。

 

  神から遣わされた神の子羊イエス、罪を贖うキリストを信じる民に与えられた御霊は、彼らのうちに住まわれます。神はイエスを信じる者を、聖霊の宮とされるのです。天から下られた聖なる御霊の住まいとされるのです。。

 

  イエスを信じる者は、うちに住まわれる御霊に教えられて、天の父を礼拝します。礼拝するのは、神殿でもなく、エルサレムでもありません。只中に住まわれる御霊によって、「アバ、父」と、いつでも祈ることが出来るのです。

 

  聖書の神は、御自身が送られた御霊によって、御自身を証されます。

 

 

    著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷著 (青い表紙の本)

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