ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

愛を追い求める魂

 

  愛を求めます。人の愛で満たされる人もいます。他のもので満たされる人もいます。確かな愛に飢え渇く人もいます。

 

  確かな愛に飢え渇く人が、キリストの愛を知ったら、どんなに満たされることでしょう。キリストの愛は、愛を求めても求めても、絶えることはありません。次から次へと湧いて来る泉のような愛です。

 

  人の愛は多くの場合、いつか枯渇してしまいます。愛を与えていると、その人自身も愛が必要となって来るのです。愛を与える立場にいる人ほど、愛が必要なのです。その人のうちに愛を注ぎ入れてくれるものが必要です。

 

  人は互いに愛し合うことで、愛が成長します。親だから、子どもに愛情を注ぐのは当然のことと思いがちですが、親にも愛情が必要なのです。

 

  子どもの「ありがとう」の言葉や、笑顔で親も支えられます。親も完全な愛を受け成長して来たわけではありません。親から、感情的に扱われたり、愛されていないのでは、と疑いを持つ時もあったでしょう。

 

  人は皆、弱いものです。愛を与える余裕のない中を懸命に生きています。子育てだけを専属的にしているわけではありません。あらゆることに気を張り詰めています。

 

  不完全な愛、乏しい愛を分け合いながら生き残っているのです。生きているということが、愛の現れです。

 

  人の多くは、幼い時からしがらみの中を生き、その生き方で親となり、子どもを育てます。自分と同じように育てる人もいれば、違う育て方を模索する人もいます。また、子育ての荷が重すぎると感じ、荷を下ろす人もいます。

 

  人は愛を必要としているのです。しかし、愛が何かがわからないのです。愛を外に求めていると、心は安定しません。愛が内に置かれた時、心は安定します。

 

  人の最小単位は、自分自身です。自分を受け入れ、自分を愛することは存在の土台となります。どんなに能力に恵まれ他人から羨まれるような人でも、自分を愛していないと、精神の均衡を失ってしまいます。自分自身を見失ったら、幸せを感じることが出来なくなります。

 

  自分で自分が受け入れられないと、自分が嫌いになります。一番大切なのは、自分なのに、自分をないがしろにしたら、誰が自分を信じ味方になってくれるのでしょうか。自分が嫌いと言うことは、自分の中で内紛が起こっている状態です。平安はありません。

 

  大学生時代、私は自分が嫌いでした。それは、高校生くらいから始まっているわけですけれど、鏡を見るのも憂鬱でした。鏡を見ると、鏡の向こうから私を睨み付けてきます。嫌なものを見たというような、歪んだ顔です。

 

  ある時、電車の窓に映る自分の顔を見て、ゾォ~ッとしました。鏡を見て、「嫌な顔。嫌い」と言いました。すると、鏡の中の私は、とても悲しそうな顔をしました。

 

  ある時から、可哀そうになりました。私が自分を嫌ったら、私は誰に助けられるのだろうか、誰に面倒を見てもらえるのだろうかと思いました。自分を放置することに、これは良くないと思い始めたのです。

 

  自分を好きになるように努力しなければならないと思いました。ほとんど見る機会を減らしていた鏡に向かって、「愛しているよ」と言ってみました。申し訳程度に言った言葉でしたが、真顔だった鏡に映った私の顔が微かに緩んだのを見逃しませんでした。こういうことを言われると、嬉しいんだと冷ややかに捉えました。

 

  心は伴いませんが、こういうことを繰り返しました。次第に、笑顔が見られるようになりました。不思議なもので、笑顔を見ると心が柔らかくなり、だんだん自分が好きになっていったのです。

 

  仏頂面の私には愛情が湧きません。苛立ちしかありませんでした。鏡を見てはイライラし、イライラしている私に、鏡の中の私は顔色を伺うような恐れと不安でいっぱいでした。

 

  嫌いという思いを下ろすと、今まで苦しめて来たことに申し訳ないという思いが芽生えました。「これからは、私があなたの友達になってあげる。何でも相談していいんだよ。私があなたの味方だよ」と言ってあげられるようになったのです。

 

  縛られていた心が解かれていくようでした。愛を拒絶していた心の扉が少し開き、風が流れ込んで来ました。

 

  自分を嫌う心が変化するにつれ、私を丸ごと受け入れてくれて外から包んでくれる大きなものを求め始めました。人の愛を求めていたのではなく、私が存在していていいんだ、と思わせてくれる、暖かくて大きな愛を求めました。

 

  私の愛の求めは強く、深いものでした。人の愛では満足できません。母親の胎内にいるような安心と安らぎが欲しかったのです。

 

  そして、行き着いたのが、イエスの愛でした。傷つける事のない柔らかで包むような愛です。きっと造られた時に味わっていたであろう愛です。「おかえり」と迎え入れてくれるような、懐かしい愛です。

 

  この愛は、身も心も魂も受け入れてくれる愛を求め続ける人が行き着く愛なのだと思います。それまでの孤独も痛みも嘆きも苦しみも報いてくださるのが、イエスの愛です。

 

  イエスとお会いして、自分自身の中の気負いが除かれて行きます。私は私であっていいんだと思えます。愛に渇くことはありません。イエスの愛は泉のように湧き出ているからです。外からではなく、御霊がうちにいて満たして下さいます。

 

  愛に飢え渇く人は、いつでもイエスの愛を受け取って行きましょう。イエスの御名を呼び求めましょう。イエスの愛は信頼できる愛です。

 

  イエスは、語り掛けておられます。

  「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

 

  ハガイは言います。

  「あなたがたの現状をよく考えよ。あなたがたは、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、稼ぐ者が稼いでも、穴の開いた袋に入れるだけだ。あなたがたは多くを期待したが、見よ、わずかであった。それは、あなたがたが自分の家のために走り回っていたからだ。それ故、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた。手によるすべての勤労の実にも、ひでりを呼び寄せた。

  万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう。」

 

 

  著作本 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (オンデマンド印刷)

   アマゾンkindle、紙書籍(オンデマンド印刷)、楽天kobo