ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

永遠のいのちとは

 

  いのちとは生きていることです。根を伸ばし、芽を出し成長し、実を結び、生み出す力です。それは、神の置かれたところで豊かになり、神の栄光を現わす不動の精神です。

 

  死とは死ぬことです。植えられた木は、根が枯れると立っていることが出来ません。実を結ぶことが出来ず、木は倒れ、朽ちて行きます。やがて、木の姿は誰にも識別されなくなります。

 

  神は、地上の木々の存在を通して、人々に啓示しておられます。いのちある者といのちなき者とをはっきりと見せておられるのです。

 

  死の道を行く者は、死は誰もが通る人間の道だと信じて、疑問を持ちません。この世の風に吹かれるままです。この世に命ある間がいのちの期間だと考えて、儚いと思って嘆くか、自分の心のままに生きて楽しもうとするか、人それぞれです。

 

  いのちの道を求める人は、この世の命が永遠に続くとは考えないで、肉体を失っても生きる歩みを模索します。そして、この世の命は永遠の世界への入り口に行き着くためであることを知り、生けるまことの神を求めます。それは、彼らが神の力によらなければ、その入り口に辿り着くことが出来ないのを知るからです。

 

  どちらの道を生きようとも、魂は永遠に存在するものです。肉体が亡くなっても、魂は亡くなりません。魂は亡くならないので、人々は、魂が過ごす場所を得ることに執着するのです。

 

  魂は、記憶しています。地上での記憶、感情も意思も知性も持ったままです。

 

  死の道を行く人の行き着く先は、永遠の火です。枯れた木は燃やされます。持っている感情も意思も知性もそのままです。固定されたままです。そこでは、悔い改めて地上の生き方を塗り替えることが出来ません。炎の中では、喜びも楽しみもありません。痛みと苦しみと叫びだけです。

 

  いのちを求める道を歩む人に、一つの細き道が設けられています。それは、神の啓示によらなければ知ることの出来ない狭い門です。神の霊、御霊によって導かれる門です。人の力では見出すことが出来ません。それは、物質的な道ではないからです。

 

  狭き門は、天に続く道です。まことの神に辿り着く道です。神が設けられた道です。神の霊によらなければ、見出す事の出来ない道です。人の霊では感知することが出来ません。

 

  神は、御自身のひとり子を地上に遣わして、神の御子によって天に通じる道を造られました。人の目には見えません。しかし、神はその道に導き歩ませる助け主を天から遣わされました。その助け主、キリストの御霊によって人々をその道に導かれます。

 

  人は、キリストの御名によって与えられた御霊を宿し、御霊に守られて、その道を進んで行くのです。人の目には見えません。他の人にはその道が偽りに感じます。御霊のない人は、見えないその道は危険であり、真理の道ではないと思うのです。

 

  目に見えないものは信じないで目に見えるものを信じる信仰と、目に見えないものを信じる信仰に分かれます。

 

  永遠のいのちとは、唯一のまことの神である父なる神と、父なる神が遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

 

  永遠のいのちを受けた人は、天地万物を造られた創造主が、イエス・キリストの父であることを知っています。また、イエス・キリストの父である創造主が、神のひとり子に肉体を造り、罪の贖いの神の子羊として地上に遣わされたことを知っています。

 

  イエス・キリストは、天地万物の主権者である天の神に遣わされた、世の罪を取り除く神の子羊なのです。

 

  イエスの十字架は、世の罪を取り除くためでした。彼は、生贄の子羊です。世の罪の身代わりの生贄です。この子羊は神が用意された、天から下って来た聖なる子羊です。この世のものではありません。

 

  天から来た子羊の贖いの血は、地上の聖所を聖めるだけではありません。天のまことの聖所をも聖める血なのです。それで、この子羊イエスの血を受ける者は、天に入ることが許されるのです。キリストが十字架で息を引き取られたとき、地上の神殿の幕は上から下へと真二つに裂けました。キリストの血は、天上への道を開いたのです。

 

  イエス・キリストを主と告白する人は、イエス・キリストの贖いの血を受けた人です。イエス・キリストの贖いの血を受けた人は、大胆にまことの聖所に入ることが出来ます。イエス・キリストがご自分の肉体という垂れ幕を通して、信じる人のために、この新しいいのちの道を設けてくださったからです。

 

  地上の聖所には、第二の垂れ幕があり、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所がありました。至聖所には年に一度だけ、贖罪の日にその年の大祭司が入りました。そして、イスラエルの民をきよめたのです。

 

  しかし、復活したキリストは、天から遣わされた子羊イエスの血を携え、天に入られたのです。そして、キリストは、今も父なる神の右の座に着いて、大祭司の務めをしておられます。子羊イエスの血は、すべての者を聖めます。ユダヤ人だけではありません。律法の下にいない無割礼の異邦人をもです。

 

  キリストの血によって罪赦された人は、神の御前に出ることが出来ます。また、キリストの御名により与えられる御霊によって、神を「アバ、父。」と呼ぶ霊の子(神の子)として、新しく創造されるのです。神が、イエス・キリストを信じる者を養子として迎え入れてくださるからです。

 

  永遠のいのちとは、神と子羊イエスと聖霊の御前で生きるいのちです。御霊による平安と喜びがあります。

 

  永遠のいのちは、神の国に入ります。神の国は、愛と義と平和と喜びと調和があります。そこには、汚れた者、邪な者、脅かす者、虐げる者、嘲る者はいません。

 

  世の罪を取り除く神の子羊イエスを信じ、イエス・キリストを世に遣わして下さった神を父と呼ぶ御霊によって生まれた新しい創造です。新しい創造を受けた彼らは、復活のからだを与えられて、永遠の愛の中に入るのです。

 

 

    著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)

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