ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神から勝利者を与えられるイエス

 

  イザヤ書53章はメシアの預言であり、イエス・キリストをさすと考えられています。4~6節には、「まことに、彼は私達の病を負い、私達の痛みを担った。だが、私達は思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私達の背きの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私達は癒された。私達は皆、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私達のすべての咎を彼に負わせた。」とあります。

 

  イエス・キリストの十字架の死と、罪の贖いを預言しています。メシアは、人々を世から救い出すために、自らの肉体を身代わりの生贄とされました。羊のようにさまよっていた魂は、神が用意された神の子羊イエスの身代わりの死によって、死の呪いが解かれ、癒されました。帰るべき永遠の住まいへの道を得たのです。失っていた魂の故郷が、イエスによって取り戻されたのです。

 

  イエスという神が遣わされた、油注がれた人の子によって、成し遂げられました。イエスは、死と滅び、闇の力の悪魔に勝利を取られた救世主キリストです。神がメシアを世に遣わすために造られたユダヤ民族に預言者を通して、語っておられた約束のメシアです。

 

  イザヤの預言通りに、ユダヤ人達はイエスを蔑み尊びませんでした。イエスには、人々が見とれるような姿もなく、輝きもなかったからです。イエスは神のことばを語りました。神の権威をもって真理を明かされました。しかし、民はイエスを退けました。

 

  11,12節で神は言っておられます。

  「彼は、自分のいのちの激しい苦しみを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼が担う。

  それ故、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者達を分捕り物として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた人達とともに数えられたからである。」

 

  彼イエス・キリストは、自分の命の激しい苦しみ(十字架の死)を見て、満足すると言われます。罪の贖いのわざは完全なものでした。十字架で流された贖いの血は、後世に及ぶ力を持つ完全な血です。この子羊イエスの血で罪の赦しは、完成しました。

 

  キリストは、たった一度、今の世の終わりに、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られたのです。キリストは、ご自分を幾度も献げることはなさいません。キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。キリストの血は、永遠の効力を持つ力ある主イエスの血です。

 

  わたし(神)の正しいしもべ、神の子羊イエスは、父から与えられたことばによって多くの人を義とします。イエスは、父を知らせ、永遠のいのちについて、罪について、義について、裁きについて、神の国について明かされました。イエスの知識は、多くの人を義とします。イエスが彼らの咎を担い、イエスの血が、彼らの罪を贖うからです。

 

  それ故、神は、多くの人々をイエスに分け与えられます。イエスが悪魔に勝利を取られたからです。イエスは、強者(信仰の勝利者)達を分捕り物として、分かち取るのです。弱々しい者ではなく、自分の命よりもイエスを愛する者、イエスのために犠牲をいとわない、御霊の力によって悪魔の誘惑に勝利する強い者を神から与えられるのです。

 

  それは、イエスが自分のいのちを死に明け渡し、神に背いた者の中に数えられたからです。イエスは多くの人の罪を負い、背いた人達のために執り成しをされます。イエスが身代わって死なれたことを信じる者の罪は、すでにイエスがご自分のいのちと引き換えに、聖められています。

 

  イエスの死は、聖人に数えられたわけではありません。輝かしい聖人として尊ばれ、高く上げられたのではありません。滅びる者達とともに、背いた人に数えられたのです。イエスは、背いた人とともにおられ、背いた人達のために執り成しをしておられるのです。

 

  勝利を取ることは、人の力ではできません。目に見えない霊的戦いの勝利です。悪魔の策略に対して立ち向かうものです。肉に対する格闘ではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者達、また、天にいる諸々の悪霊に対するものです。神の武具を身に着けて戦う戦いです。

 

  「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈りなさい。そのためには、絶えず目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」とパウロは言います。

 

  御霊によって祈り、霊の目が開かれて敵が何かを悟ることができるように、悪魔の策略に立ち向かう武具を身に着けるように、また、勝利することができるように、祈り続けましょう。

 

  イエスは、今も執り成しておられます。一人の戦いではありません。互いに執り成し合う聖徒もいます。空しい戦いではありません。すでに、悪魔に勝利を取られた主イエスの執り成しと御霊の守りがあります。

 

  悪魔の力はすでにイエスに破られています。聖霊に従って、主イエスの足跡を歩み、勝利を取りましょう。神は、子羊イエスに、勝利する強者達を与えられるからです。

 

  使徒パウロは言います。

  「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしていません。私は自分のからだを打ち叩いて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

  私は、ただ捕えようとして、追求しているのです。ただ、この一事に励んでいます。即ち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」

 

 

    著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)

    アマゾンkindle、紙書籍(オンデマンド印刷)、楽天kobo