ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスの信仰に立つ

 

  イエスは、いつも父を見ていました。父から離れたことはありませんでした。父のことばを語り、父のわざをしました。

 

  信仰とは、人から出ているように見えて、実は、神から出ているのです。神が、良いと思われた人に信仰を与えておられます。神の御霊によらなければ、「イエスは主です」と言うことが出来ないのです。

 

  神が人に与えられる信仰は、イエスが持っておられた信仰です。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つなのです。

 

  ぺテロが授けるバプテスマもパウロが授けるバプテスマも、イエス・キリストにあるバプテスマなのです。ペテロのバプテスマでもなく、パウロのバプテスマでもありません。○○教会のバプテスマでもなく、○○牧師のバプテスマでもありません。イエス・キリストにあるバプテスマなのです。バプテスマは一つです。

 

  信仰も宗派教派教団によって分かれる教理のことではありません。イエス・キリストを信じる一つの信仰なのです。イエスを神が遣わされた神の御子、神の子羊主キリストであることを告白する信仰です。そして、イエスご自身の信仰を受けることです。

 

  主は、イエスが従われた父なる神、イエスを地に遣わされた創造主と、父をご自分において現わされた神の子羊イエスです。イエスを見るまでは、人は父の存在を知りませんでした。イエスのことばを聞くまでは、神がどのようなお方であるのかを、はっきりとは知らされていなかったのです。

 

  すべては、イエス・キリストによって明らかにされたのです。神の旗印は愛です。神の愛は、イエスを罪の身代わりとしました。神の愛は、キリストの血によって、罪を赦されました。神の愛は、御霊によって、死んだからだを新しい復活のからだとして甦らされます。

 

  からだは一つ、御霊は一つです。復活のからだは、キリストのからだです。イエス・キリストの信仰が一つのからだを組み立てるのです。キリストのからだは、信仰の勝利者の教会です。黙示録にある七つの御霊の教会です。これは、一つの御霊によって生まれた霊の子らの教会です。七つの御霊がそれぞれの教会を集める七つの教会です。

 

  それぞれは、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ飲み物を飲んでいます。一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受けているからです。からだはただ一つの器官からではなく、多くの器官から成っています。神は、御心に従って、体の中にそれぞれの器官を備えてくださいました。器官は多くありますが、からだは一つなのです。

 

  キリストの信者は、キリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。からだの中に分裂がなく、各部分が互いに労わり合うために、愛が与えられています。愛は結びの帯として完全なものです。

 

  キリストのからだに属する人は、古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられて益々新しくされ、真の知識に至るのです。

 

  パウロは言います。

  「あなたがたは神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、誰かが他の人に不満を抱くようなことがあったとしても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらの上に、愛を着けなさい。」

 

  愛は御霊に与えられるものであり、育てていくものです。

 

  キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、そしてその経験のゆえに聞き入れられました。キリストは神の御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となられました。

 

  イエスは、この地上で、信仰の土台を造ってくださいました。私達は、イエスの信仰の上に建て上げられるのです。自分の信仰ではありません。もともとあるイエスの信仰の上に、御霊が私達を立たせてくださるのです。

 

  私達は、イエスの信仰の一部分となるのです。イエスから学び、聖書から学び、御霊によって教えられ、変えられていくのです。私達は学ぶ者です。育てられる者です。

 

  「イエス・キリストが私の主です」の告白とともに、イエスの信仰の上に置かれます。御霊は、キリストのからだに相応しい者とするために、その人の心のうちに働き、また、環境に働き、打ったり、叩いたり、削ったりしながら、造り変えていかれます。何もわからない本人は、うめいたり、泣いたり、神に叫んで、イエスの信仰を体験するのです。

 

  キリストのからだとなる人は、イエスの信仰の上に立ち、そこに留まっています。一度逃げても、またそこに戻り、御霊が整えるみわざを受けるのです。

 

 

    著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)

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