ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエス・キリストの信仰

 

  イエスは、十二人の弟子を招かれました。多くが漁師でした。律法の知識のある者達ではありません。道理をわきまえるのに時間がかかります。イエスは、「まだ、わからないのですか」と呆れておられます。

 

  しかし、イエスの御名を使ってわざをすると、悪霊どもでさえ、自分達に服従するのを、幼子のように喜ぶ弟子達をご覧になって、イエスは、聖霊によって喜びに溢れて言われました。

 

  「天地の主であられる父よ。あなたを褒めたたえます。これらのことを、賢い者や知恵ある者には隠して、幼子達に現してくださいました。そうです。父よ。これが御心に適ったことでした。

  すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、誰も父を知る者がありません。」

 

  父が誰であるかを知ることができるのは、イエスが父を知らせようと心に定めた人であるから、と言っておられます。イエスの父が、天地の主であられる創造主であることは、イエスが心に定めた人に明かされるようです。同じように、イエスのことばを聞いても、イエスを遣わされた父のことがわからない人もいるのです。

 

  誰もが、イエスを自分の目で見ました。人間と同じように肉体を持つ人です。多くの人は、イエスがヨセフのせがれであり、大工の息子だと思いました。神から来た人だと信じられません。イエスは、神を父と呼ぶではありませんか。なんて、畏れ多いことでしょう。神に仕えるレビ人ではないのに、神のことを親しく呼ぶのです。しかも、無学な者達が弟子としてたむろしているのです。

 

  聖書の知識のある人々にとっては忌むべき光景です。詐欺まがいのインチキ集団に見えます。神の民ユダヤ民族の中に起こってはならない異端者なのではないでしょうか。

 

  知識ある者達は、その知識によって思いが暗くなりました。自分達の持つ知識にそぐわないものは排除するのです。己の知識を誇る者達は、正規の学びをしていない大工の息子の話を鵜呑みにするわけにはいきませんでした。イエスが正しいことを言う度に、内心うろたえます。イエスを試し続けました。

 

  イエスのことばは真理でした。混ぜ物のない真理です。知識ある者達は分別を失います。彼がメシアであるはずがない。彼が神から遣わされた者であるなんて信じられない。聖なる神を「父」と呼ぶとは何事だ。胡散臭いやつめ。知識の無い民衆は騙されている。

 

  民を教え導くはずの教師達がイエスに逆らいます。

 

  イエスは彼らに言われた。

  「わたしの味方でない者はわたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。

  また、人の子に逆らう言葉を口にするものでも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、誰であっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。

  まむしのすえ達。おまえ達悪い者に、どうして良いことが言えましょう。心に満ちていることを口が話すのです。」

 

  イエスが学の無い者だとか、ナザレの田舎者だとか、イエス自身をけなしたり、イエスに逆らう言葉も神に赦されます。しかし、イエスが語ることばは、父のことばなのです。イエスが神から出た者では無いと言う事は、聖霊の啓示に逆らい、父を否定することなのです。

 

  イエスが神を父と呼ぶ事をユダヤ人は、神を冒瀆する赦されない罪だと思いました。しかし、イエスが神を父と呼ぶ事は、神が認められることです。イエスが、わたしは神の子ではないと言うならば、偽り者となります。真実なことだからです。イエスを神の御子だと信じない者を、神は罪に定められるのです。

 

  律法の知識のある者達は、知識があるのに、神を知りません。無学な者達は、イエスのことばを聞いて受け入れ、神の知識を得ました。神の知識には、いのちがありました。

 

  専門家達は、いのちの無い知識にすがり着きます。父が選んだ弟子達は、幼子のようにイエスに信頼します。父は、幼子達に永遠のいのちを与えられるのです。何故ならば、彼らが信頼するイエスに永遠のいのちがあるからです。律法には永遠のいのちがありません。父が天から遣わされたイエスと聖霊に永遠のいのちがあるのです。

 

  イザヤが預言していました。イエスの父のことばです。

  「この民の所に言って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。

  それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしに癒されることのないためである。」

 

  心の柔らかい純真に神を求める人々に啓示の光が注がれ、律法に縛られ、善悪に囚われている心の頑なな人々には、啓示の光が与えられないようです。御霊の啓示がなければ、イエスが神の御子キリストであることも、イエスを地に遣わされた神がイエスの父であることもわからないのです。御霊によらなければ、悔い改めることもできません。真理を悟ることができないのです。

 

  イエス・キリストの信仰は、父に信頼する信仰であり、「アバ、父」と呼ぶ御霊の信仰です。イエスは父とともにおられ、御霊とともに歩まれました。イエス・キリストの信仰を受ける人々は、イエスのように父なる神を求め、父に信頼し、日々御霊に導かれて歩むのです。

 

 

    著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)

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