ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエス・キリストに留まる

 

 イエスが昇天してから間もなくの事です。ペテロもヨハネもパウロもイエスの福音を宣教していた頃の話です。

 

 パウロはガラテヤ人への手紙にこう書いています。

 「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方(イスラエルの神であり父である方)を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。

 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたを搔き乱す者達がいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 しかし、私達であろうと、天の御使いであろうと、もし私達が宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者は呪われるべきです。私達が前に言ったように、今もう一度私は言います。もし誰かが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者は呪われるべきです。」

 

 イエスキリストの福音を聞いてイエスを主と告白した後に、惑わす者が働いて、その信仰を奪い去ろうとする力が働くことを言っています。

 実際にこの時、異邦人も割礼を受けなければ仲間ではないと主張する割礼派の人々を恐れて、ペテロやバルナバまでもが、本心に偽った行動をとり、異邦人から身を引いていたのでした。

 

 パウロは言います。「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私達もキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって、神に義と認められるためです。」

 

 イエス・キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人も異邦人も神から義とされ、神の御国の家族となるのです。

 

 パウロは、エペソの教会の長老達に言いました。

 「私が出発した後、凶暴な狼があなたがたの中に入り込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子達を自分の方に引き込もうとする者達が起こるでしょう。ですから、目を覚ましていなさい。」

 

  凶暴な狼とは、羊のなりをして、羊を散らす者のことです。他宗教や教会の外部の者のことではありません。神から遣わされていない者です。

 

  エレミヤも「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる」と忠告しています。

「あなたがたのうちにいる預言者達や、占い師達にごまかされるな。あなたがたが夢見させている、あなたがたの夢見る者の言うことを聞くな。何故なら、彼らはわたしの名を使って偽りをあなたがたに預言しているのであって、わたしが彼らを遣わしたのではないからだ。」

 

 神の民の中に、神の民を乱す者が入ることはどの時代にもあったのです。人類の歴史がそうです。エデンの園でエバは蛇に騙され、アダムはエバにそそのかされました。ノアの箱舟によって洪水から救い出された人も、ニムロデによって、バベルの塔を建て始め、神に逆らう者となりました。

 

 悪魔は霊です。人間を使って神の人を惑わし、道を踏み外させて滅びに導くのです。悪魔は神の敵です。イエス・キリストの敵です。キリストの栄光を奪う者です。

 

 イエスご自身も言っておられます。

 「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」

 

 私達は目を覚ましていなければなりません。イエス・キリストの栄光を見ているでしょうか。聖霊の喜びがあるでしょうか。常に、神の御前に出てチェックしなければなりません。

 

 神の御前に出るとは、神御自身に尋ねることです。人にではなく、ひとり神に祈り尋ねるのです。これを密室の祈りと言います。いつも神に尋ねる習慣をつけるのは良いことです。それは、霊的な守りとなります。

 

 神に祈る習慣を身に着けると、聖霊の感覚がわかり始めて来ます。自分の感性ではなく、聖霊の感性です。自分が行こうと決めても、聖霊がストップされることもあります。自分が嫌だなと思っても、聖霊の促しがあることもあります。

 

 私の思いは、肉の思いです。しかし、聖霊の思いは神の御思いであり、イエス・キリストの思いです。そして、神の御思いにいのちがあるのです。いのちの道を歩むためには、肉の思いを捨てていかなければなりません。

 

 自分の中の肉を一つ一つ捨てて行くということでしょうか。そうではありません。それでしたら、一生かかっても成し遂げられません。肉体が死ななければ肉はなくならないのです。肉体が死んでしまったら、地上の学びは終わります。何も学ぶことのないまま、神の御前に立たなければならないのです。

 

 自分の内側を見続けるのは、聖霊の働きを止めてしまいます。聖霊の働きは、聖霊の促しに従うことによって得られます。神に祈り、聖霊の促しに従って行くうちに、神が必要な悔い改めに導き、道を整えてくださるのです。それを繰り返していると、自分の努力ではなく、聖霊のみわざで内側に変化が起こっているのを体験して行くのです。

 

 新しい霊の人がどんな人か、私達は知りません。神が御存じです。肉なる私達は、霊なる人となるためにいくら頑張っても無理です。そもそも霊を見たことがないからです。しかし、私達のうちに住まう御霊は知っておられます。

 

 御霊はその人の弱さも自我もよくご存じです。その人の出っ張ったところや、肥えたところや、えぐれているところや、足りないところ、みな正確に捉え、それら一つ一つを御霊が修正して行かれるのです。御霊は、肉なる私達をシミも傷もしわもない霊の子に造り変えるために工事されるのです。

 

 聖霊にゆだねるだけです。御霊は、イエス・キリストのことばを受けて、私達の内側に働き、また、私達を通して、御霊のわざをされるのです。

 

 悪魔が人を使って惑わすように、聖霊も人を用いていのちと救いのわざをされるのです。

 

 どんなに素晴らしい御業を見たとしても、預言を聞いたとしても、イエス・キリストご自身に留まることです。イエス・キリストへの信仰があるかどうかを自分自身に問いかけてみることです。そして、内なる方、御霊に尋ね、従う習慣をつけることです。

 

 イエス・キリストを信じた人は、信仰を持ち続ける事が大切です。祈り、感謝し、イエスの愛の深みへと導かれましょう。御霊に導かれましょう。救いの喜びが確かなものとなることでしょう。

 

 

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