ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

イエスを慕い求めよ

 

 詩編27:8でダビデは言います。

 「あなたに代わって、私の心は申します。『わたしの顔を、慕い求めよ』と。」

 

 神の顔を慕い求めるとは、常に神を仰ぐことです。心の望みも願いも神御自身に置くことです。世に目を移すと、煩いに遭遇します。しかし、神は平安あれ、と言われます。

 

 平安は神の御霊とともにあります。神はすでに、御霊を与えておられます。神が与えられた御霊にゆだね、イエスの御名で祈りましょう。

 

 目に見えない神に信頼するという事は、肉の力では長続きしません。自分自身や世に失望した者は、神にすがる事が出来ます。しかし、この場合の神も、目に見える偶像に走る場合があります。

 

 霊の事を、肉の意識で掴む事は無理です。霊の事は、霊で捉えなければなりません。神は、イエスを信じる者に、御霊を下さいました。御霊の助けによって、霊の事を知る知識や霊の意識を目覚めさせてくださるのです。

 

 神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私達の心に遣わしてくださったのです。神が父ならば、神の奴隷ではありません。奴隷ではなく、神による相続人、神の子どもなのです。

 

 パウロは言います。

 「神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない、神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。あなたがたのために私の労したことは、無駄だったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。」

 

 この世の霊に踊らされてはなりません。神の中に逃げ込むのが良いのです。イエス・キリスト以外の救いを求めてはなりません。神の守りの中に留まりましょう。

 

 かつて肉によって生まれた者(イシュマエル)が、御霊によって生まれた者(イサク)を迫害したように、いつの時代も繰り返されます。イエスが地上に来られた時もそうでした。

 

 律法や伝統に縛られた専門家達が、イエスとイエスの弟子達を迫害しました。

 聖書は言っています。

 「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

 

 奴隷の女の子どもとは世での在り方に縛られた者達です。まことの神の霊である御霊に教えられない者です。宗教の霊に堅く握られた者です。伝統的な儀式と風習とに、充足を覚える者です。

 

 自由の女の子どもとは、イエスの御霊に導かれる者です。御霊は霊です。霊とまことをもって父を礼拝する、真の礼拝者となる希望を持っています。

 

 かつて、アブラハムが奴隷の子イシュマエルをその母ハガルと一緒に追い出したように、神は、肉の信奉者達を神の子の群れから追い出されます。彼らは、神の国の相続人になってはならないからです。

 

 黙示録にある御霊の教会のことです。御霊の教会に入るのは、自由の女の子ども達です。

 

 終わりの時代には、肉の子ども達が、御霊の子ども達を迫害し、苦しめます。この苦しみを潜って、御霊の教会に集められます。神にすがり、イエス・キリストの御名の中に留まる者達の教会です。信仰の勝利者達の教会です。自分の命よりもイエス・キリストを求める人々の教会です。

 

 ロシアが周囲の小国を征服し、ついにはイスラエルに侵攻することをエゼキエルは預言しています。これをエゼキエル戦争と呼んでいるそうです。兆候が現れている現在、終わりの時を意識して、神に会う備えをしなければなりません。

 

 エゼキエル戦争の前にクリスチャンの携挙があります。もし、エゼキエル戦争を目撃するならば、地上に残された者であるという事です。とても恐ろしい事です。

 

 神の時に、神に引き上げられるための備えをしなければなりません。からし種の信仰があればよいのです。イエスだけを一心に見つめ、イエスを選び続けることです。肉体の人の中に信仰はありません。ただただ、イエス・キリストの御名にすがり、御霊の助けを求めるだけです。

 

 日々、神に感謝し、イエスを愛し、御霊の喜びを持つ人は、神の招きにすぐに応じる事が出来ます。

 

 神を心の中心に置き、人知を遥かに超えたキリストの愛を味わい知るために、聖書を読み、御霊の教えを受け取り、祈りと感謝をもって、いつもイエスとともにいましょう。そして、目の前にある置かれた事を忠実になし、丁寧に過ごしましょう。

 

 イエスも言っておられます。

 「戦争のことや、戦争の噂を聞くでしょうが、気をつけて、慌てないようにしなさい。これらは必ず起こることです。」

 

  この後、民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉と地震が起こります。そして、聖徒は苦しい目に会わされ殺されます。自分の命を救おうとして、イエスから離れないようにしましょう。

 

 イエスは前もって教えておられます。この時代から逃げることは出来ません。私達が出来るのは、イエスを裏切ることなく、イエスを選び取る信仰が与えられるように、祈り備えることです。そして、イエスの信仰をもって互いに励まし合うこと、神の忠実な礼拝者となること、イエスを慕い求めることです。

 

 

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