いま、ヨーロッパでは、教会離れ、キリスト教離れが深刻化しているようです。アメリカも悪魔礼拝者達が幅を利かせているようです。終わりの時代の形相が誰の目においても明らかですね。
特に若い人に顕著なようです。機械的なものに囲まれた世界で育つ彼らは、霊魂の成長の芽が摘まれて来ました。生きている実感を感じるものを求めているのかもしれません。
彼らの閉じられた霊は、偽りを見抜いているのかも知れません。宗教ではなく、生きた体験を求めているのかも知れません。彼らは、大人よりも正直です。
神のことばが、生ける神の息吹であるという体験を見聞きする機会がなかったのかも知れません。彼らの純真な霊が満足する、聖霊の働きを味わっていないのかも知れません。
イエス・キリストの御名だけが、ひとり歩きします。イエス・キリストの御力を感じることができません。キリスト教の教会と言いながら、そこでイエスがどんなお方かを肌で感じることができません。遠い昔に死んだ偉大な故人のようです。
若者の霊は飢え渇いています。いつも古くなって干からびたパンを食べ、感謝どころか食べる喜びがありません。喜びがないのに、感謝することを要求されます。自分の心に偽って、感謝を続けていると、ますます心は堅くなり、偽っている自分自身も嫌いになり、偽らせるイエスも嫌いになってしまいます。
イエスは良いものを与えないくせに、人には良いことを強要する心無い暴君に感じます。創造主に対しても不信感が湧きます。
教会の外を見ると、イエス以外にも、救い主と言われるものがあることに気づき、今の殺伐とした心の迷いから救い出してくれるものを求めて、そちらに引き寄せられます。
宗教の霊が、教会を占領したからです。生ける神との交わりではなく、儀式的に神の御前に出るだけです。儀式で見上げるキリストが、どのようにして、自分のことを理解しているというのでしょうか。個人的親しみがないまま信仰を続けることは出来ません。若者は自分に嘘をつくのを嫌います。嘘をつき、偽りで満足するには、純粋すぎるのです。
親の偽りが赦せないように、イエスへの失望と本物ではないものへの怒りが若い心を傷つけます。もっと純粋なものを求め、真理を教会の外に求めるのかも知れません。
救いの鍵は、イエスが下さった御霊です。御霊によらなければ、神の事は分かりません。御霊に教えられなければ、イエスの愛がわからないのです。どんなに立派な説教を聞いても、御霊を受けていなければ、心に留まりません。
救いは、キリスト教でも、教会でもありません。教会に繋がっているから救われるというものでもありません。イエスの御霊を受けるならば、神の国がその人のうちにあるのです。イエスを個人的に体験します。イエスはすべてを知る方、もっとも大切な友であることを知るのです。
教会に集っていた人々の背教が預言されています。御霊のない人々は偽りを本物だと信じることができます。御霊を持つ人は、教会を出ることがあっても、イエスへの信仰を保つのです。
御霊は永遠のいのちです。イエスが不法の者が聖徒を荒らし回ることを知って、イエスに繋がっていられるように、御霊を与えておられるのです。
神は、形骸化した教会ではなく、イエスを信じていない未信者や異教徒を顧みて、その中から御名をもって呼ばれる民をお召しになるでしょう。
パウロは言います。
「神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。見なさい。私達は、これからは異邦人の方に向かいます。何故なら、主は私達に、こう命じておられるからです。
『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』」
異邦人達は、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人達は、皆、信仰に入った。
教会の外にも、永遠のいのちに定められていた人達がいるのです。彼らは、イエス・キリストを主と告白して、まことの神に従うのです。御霊は垣(教会)を越えて働かれます。救いは異邦人(イエス・キリストの信仰の無い人々)に向かいます。
イエス・キリストこそ生きている者と死んだ者との裁き主として、神によって定められた方であることを知るからです。イエスを信じる者は誰でも、イエス・キリストの御名によって罪の赦しを受けるのです。
著書 『人はどこから来てどこへ行くのか』鍵谷泰世著 (青い表紙の本)
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