マタイ9:16,17で、イエスは言っておられます。
「誰も、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
また、人は新しい葡萄酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、葡萄酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しい葡萄酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
これは、バプテスマのヨハネの弟子達に言われた言葉です。バプテスマのヨハネの群れやパリサイ人は断食するのに、イエスの弟子達は断食しないので、ユダヤ教の教理から外れているように思い、イエスに質問したのでした。
イエスがユダヤ人の神から出た者ならば、ユダヤ教の教理に忠実であるはずだ、と考えたのです。ユダヤ人から見ると、イエスは、律法を守ることや断食をする事に対して、厳格ではないように思えました。
イエスは、先祖達が教えなかった、新しい教えを教えました。神御自身を教えたのです。ユダヤ人達は、神の御名を軽々しくお呼びすることを禁じて来ました。それなのに、イエスは、神を父と呼ぶのです。畏れ多いことです。聖なる神に対する冒瀆です。
イエスはユダヤ人が守って来た教えを古いとされました。そして、古いしきたりを古い皮袋とされました。イエスの教えは新しい教えであって、ユダヤ人の古いしきたりの中には納まらないものだとされました。イエスの教えはユダヤ教の中に納まるものではなく、新しい皮袋の中に入るものだとも言われました。
イエスはホセア書で「わたしは誠実を喜ぶが、生贄は喜ばない。全焼の生贄より、むしろ神を知ることを喜ぶ」といわれる神を教えられました。イエスは神に認められる仕え方を、教えられたのです。
断食や安息日を儀式的に守る仕え方に警鐘を鳴らされました。犠牲よりも憐れみを好まれる神です。罪人を憎むのではなく憐れまれる神です。うわべだけの仕え方に辟易しておられます。神を敬っているかに見せて、敬っている神のことを知ろうともしない愛のない彼らを、古いとされます。
人はうわべを見ますが、神は心を見るお方です。神は、心の伴わない犠牲を受け入れられないのです。イエスは、神に受け入れられる仕え方を教えられたのでした。
イエスの教えは御霊の働かれる教えです。御霊はいつも動いておられます。いのちのエネルギーをもって豊かに働かれるのです。生ける神のことばはいのちの働きなのに、ユダヤ人はいのちの働きを望んでいませんでした。形式を重んじ、神御自身の御心よりも伝統を重んじ、自己満足な仕え方をしていたのです。
イエスは生ける神に仕える事を教えました。神との交わり、神の愛と喜びを体験する事を教えたのです。ユダヤ人の神は、人間が作った偶像の神々とは違います。生きておられ、ことばを語り、恵みを注ぎ、憐れむ愛をもって働かれる、霊なる神です。いのちの勢いと栄光を現わされる神です。
イエスの教えは、生けるまことの神を、霊とまことをもって礼拝し、神から遣わされたイエスとともに一つとなるという教えでした。神と心が結ばれ、神の御子イエスの友となる教えです。この教えは、ユダヤ人の古いしきたりに入ることは出来ません。新しい皮袋が必要です。
イエスは、ユダヤ教や律法を古いとされ、父や神の国や永遠のいのちの新しい教えを説き、神の子羊の救いを明かされました。新しい教えは、イエス・キリストを信じる信仰による義です。律法によって義とされるのではありません。
信仰によって律法が無効になったのではなく、イエスにおいて律法は確立し、「アブラハムは神を信じた。それが彼の義となった」という信仰が立てられたのです。イエスが律法を全うされたので、イエス・キリストを信じる信仰が、神の義とされるのです。
ユダヤ人の伝統やしきたりを古いとし、イエス・キリストを信じる信仰を新しい契約とされました。イエスの時代に、古い葡萄酒(律法)を新しい葡萄酒(イエス・キリストを信じる信仰)に変え、新しい皮袋(御霊)を用意されたのです。新しい葡萄酒がいのちを与える飲み物だからです。
終わりの時代に、イエスのことばが再び働きます。神のことばでその時代に起こったことが、再び繰り返されます。
伝統と儀式によって形骸化したキリスト教に起こります。それらの教会を古いとされ、生ける神の働きの御霊の教会を新しい葡萄酒とされるのです。それは、御霊によって新しく生まれ、御霊に聞き従う信仰の教会です。
イエス・キリストを信じる信仰の中で生まれた教会です。新生し御霊に従って歩む人々の中に、律法の要求が全うされ、御霊によって新しい創造を受けた教会です。永遠のいのちを受ける教会です。
イエスが求められる新しい葡萄酒は、御霊に聞き従う信仰です。新しい皮袋は用意されています。それは、七つの御霊の教会です。神は、終わりの時代に、御霊の教会のメンバーを集められます。
御霊に聞き従う人々は、御霊によって守られ、全うされ、神の栄光を現します。