ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

霊的イスラエルの刈り取り

 

 アブラハム、イサク、ヤコブの子孫が、神の契約を持つ民イスラエルです。それで、イエスが地上に来られた頃のユダヤ人は、自分達は聖なる選びの民であり、神との契約のない異邦人は汚れた者であるという意識を持っていました。

 

 神の御子イエスがイスラエルに遣わされた時も、イエスは神の民イスラエルの間を歩まれました。神の民が神の御子を迎えたのです。

 

 イエスは、霊のことばを話されました。地に属する世の言葉ではなく、天に属する神のことばです。永遠のいのちを得させる言葉です。しかし、契約の民イスラエルは、イエスのことばを拒みました。そして、イエスを憎みました。

 

 アブラハムは神のことばに従って生きる者でした。その信仰を受け継いだはずのイスラエルのうちに、イエスはその信仰を見出すことが困難でした。彼らの霊は頑なになっていたのです。霊なる神と契約を結びながら、他の国々の国民のように肉的に神を知ろうとする者に変わり果てていました。

 

 肉的になっていたイスラエルは、神の約束のメシアを待っていました。肉的になっていたイスラエルは、ローマ帝国から救い出してくれるメシアを待ち望んでいました。奴隷の家エジプトからイスラエルを救い出したモーセを待ち望んでいたのです。

 

 神の約束されたメシアは、敵国の支配からイスラエルを救い出す救い主ではありません。神は、滅びの世から人々の魂を救い出し、永遠のいのちを与える救世主を約束しておられたのです。世界を救う救世主をイスラエルに与えるといわれていたのです。

 

 アブラハムの契約を受け継ぐイスラエルからメシアを起こし、そのメシアに仕える民として、ユダヤ民族を造られていました。ユダヤ民族は、イエスを生むことで、世界に対して祭司の国となり、イエスに仕えることで国々を神に導く役割を担っていたのです。

 

 イエスはイスラエルのための救世主ではなくて、全世界の人々の救世主として来られました。朽ちて行く肉体を脱ぎ捨て霊のからだを得て、初めからあるいのちに帰る魂を生むために来られました。

 

 まことの神はひとりです。天地万物を造られた創造主です。悪いものになった人間の罪汚れを取り除くために神の御子イエスを、人の機能を回復するために御霊を地上に遣わされました。

 

 肉体を持つ魂は、キリストの贖いの血できよめられ、御霊によって回復されます。回復した魂は、神のみもとに帰り、神の御国で永遠に生きる神の子とされます。

 

 アブラハム、イサク、ヤコブの子孫は、神が遣わしたイエスを拒絶したことで、新しい創造を受け取っていません。神の契約を持つヤコブの子孫イスラエルは、肉に於いてはイスラエルですが、霊に於いては死んだ者です。彼らは、血肉のイスラエルなのです。

 

 かつて、イエスは血肉のイスラエルに救いのことばを語られました。そのことばは、いのちの言葉です。神の言葉を教えるレビ人達がそれを拒み、ユダヤ人に福音が届けられることを妨げました。正規に学んだ聖書の専門家がいのちを妨げたのです。

 

 聖書の知識のないイエスの弟子達が、死から甦り復活のからだで現れたイエスを証し、福音を広めました。使徒達が亡くなると、異邦人の信者達は、割礼の人々を迫害し、ユダヤ人達は群れから離れました。それで、異邦人のキリスト教会となりました。

 

 キリスト教会は、キリストの福音を信じる者がまことの神の契約の民と考え、ユダヤ民族のイスラエルに対抗して、自分達をキリストによって新しく造られた霊的イスラエルと位置づけました。

 

 霊的イスラエルは、世界中に増え広がりました。各国にキリスト教会が造られ、キリスト教徒の数が増えました。ユダヤ人の国がイスラエルと認識されたように、キリスト教徒の集いが霊的イスラエルと認識されています。

 

 血肉のイスラエル(アブラハム、イサク、ヤコブの子孫ユダヤ人)にイエスが来られ、いのちのことばを語られたように、終わりの時代には、霊的イスラエル(キリスト教徒)に御霊が働かれ、いのちのことばを示されます。

 

 イエスが間違いを正されたように、御霊も正されます。それは、律法の専門家達を脅かし苦しめたように、聖書を教える立場の者達を脅かす内容です。それは、すでに始まっているのかも知れません。

 

 神は霊的イスラエルを自称しているキリスト教徒達に、真理の光を照らされます。キリスト・イエスに繋がる者達は、光に照らされ、御霊の声に耳を傾けます。キリスト・イエスに繋がる人は、イエスを愛する人、イエスを求める人、御霊の声を聞く人、御霊に従う人達です。

 

 同じように、真理の光に照らされても、イエスよりも教会を愛する人、御霊の声よりも牧師の言葉を求める人、イエスよりもこの世を愛する人、自分の思いや自分の願いを握って自分の意思で自分の命を生きる人(神に生かされているという感謝がなく、自分が主人である人)、彼らは霊の目が閉ざされ、真理の光に気づくことはありません。

 

 霊的イスラエル(キリスト教徒)の中で働かれ、まことの神の民を集められる時が近づいています。麦の実を集められます。目を覚まし、祈り備える人々が刈り取られ神の国には入るのです。目覚めていない麦の実は、実の無い麦の殻の間で眠っています。