ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

弱さのうちに働かれる主

 

 人の弱さに付け入る悪魔がいると同時に、人の弱さに働かれる主がおられます。本人が自覚しない弱さを悪魔は知っています。その弱さを引っ掛けて、悪魔は人を奴隷にします。誘惑の手にかかります。弱さとは、執着するものであり、手放すことのできない、心を占めるものです。

 

 罪の根は、心にあるものです。心の傷ついている部分に根を張ります。傷の原因は、怒りや恨みや憎しみや妬みや悲しみや落胆等があります。それらは、神に明け渡せないで、自分で握っているものです。闇に閉ざされ、光が差し込まない部分です。

 

 心の闇に気づかないこともあります。自分が抱えている問題を問題として自覚していないのです。気づいても、見ぬふりしてやり過ごしているものでもあります。ゴミ屋敷のように手が付けられないほど、ため込んだ部分です。いつか片付けようと思うことがあっても、いざ手を付けようとするとどこからどうしたらよいのか、頭がぐらぐらして、やっぱり今度にしようと後回しにしている事柄です。

 

 キリストの救いの光を受けると、光を拒絶するもうひとりの私の存在に気づきます。これが私のうちにいるので、厄介です。イエスと良い関係を作りたいという願いを持ちながら、闇も抱えたままです。闇を手放すことを留める闇の力が働いているのです。

 

 闇の力は私のものではありません。私の寂しさや孤独や痛みに住み着いていた悪魔のものです。悪魔は、しきりに、あなたが悲しむのは最もだ。あなたが怒るのは無理がない、と正当性を主張して来ます。私の思いに同調してくれる、良い友のようです。私の心を知る理解者のようです。そんな悪魔に心を許し、心の痛みを打ち明け、偽りの慰めに心を淀ませます。

 

 キリストに目を向けると、闇を照らす強い光に目が眩みます。闇の慰めは、光の中ではなく、目を刺激しない薄暗い中で行われます。薄暗い弱い光の方が居心地が良いのです。強い光は刺すようです。痛いのです。闇を露わにされ、責められているようです。

 

 悪魔は、恐ろしい鬼の姿では近づきません。優しい女神のような姿で寄り添うのです。親切です。反対はしません。すべてを受け入れ肯定してくれるのです。その関係に安息していると、突然、騙しや裏切りへと姿を変えて行くのです。女神は幻であったことに気づきます。

 

 キリストを信じても、光の治療を受けて癒されるまでに時間がかかります。心の闇が癒しを拒絶しているからです。古いものを捨てることに勇気がいります。古い過去が自分自身だと思うからです。自分の通って来た歩みを失うことは、自分自身を否定すること、自分自身を失うことのように感じるからです。

 

 神が、新しいものに造り変えると約束しておられるのに、自分の過去が私を作って来たものだと、古いものにしがみつきます。古いものに希望もいのちも無いのに、何故か古いものによって自分を肯定したくなるのです。

 

 この世に執着します。過去の栄光が素晴らしければそれを忘れることができないのは理解できます。でも、他人から称賛されないような過去の私にいつまでもしがみつくのは、神が用意された新しいいのちの恵みを知らないからです。聞いてはいても、実際に見ていないからです。見ていないのは、そこに信仰が働いていないからです。不信仰だからです。

 

 古い生き方、感じ方、意識から、神に従う生き方、御霊の意識による新しい歩みに移るには勇気がいります。信仰生活の延長にその門をくぐっているのだと思っていましたが、キリストを選ぶという覚悟によって開かれる門のようです。

 

 悪魔は私の弱さを握っています。でも、その弱さの中で神を求めるということを学ぶのです。自分の力で克服できることに、あえて助けは求めません。自分の力ではどうしようもない事にぶつかった時に、キリストの御名を呼び求めるのです。

 

 私の心の弱さは、闇であり、キリストの御名を叫び求め、神の御手を捜し求める、信仰の道への入り口でもあるのです。光に出会うために心に置かれた宝です。神に出会い、神に立ち返り、神の道に入るための秘宝です。悪魔が握っていた弱さを神に明け渡す時、心に平安が訪れます。

 

 なんと、弱さが神の手に渡ると、それが、神を信頼する私の強さとなるのです。闇が深ければ深いほど、神への感謝と信頼は確かなものとなります。自分の悪を知れば知るほど、神の義を知って行くのです。

 

 弱さは悪いものではありませんでした。すべてのことを益としてくださる神に立ち返ると、弱さのうちに神の恵みが注がれ、光を愛する者に変えてくださるのです。

 

 イエス・キリストと私は離れてある者ではなくなりました。弱さのうちに神を求め、神の力を必要とする者に変えられました。イエスが父とひとつであったように、イエスのいのちで生きる者とされます。

 

 自分と言うものを持つ、生かしてくださる神から分離した悪魔の性質から、父なる神とひとつというイエスの性質に造り変えられ、キリストのからだとして生かすいのちの働きの中に入るのです。