ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悪魔はイエスの足台

 

 悪魔は各人の弱みにつけ込んで、巧妙に誘惑を仕掛け、神のもとに帰らせないように働きます。悪魔が囁かなくても、誘惑の罠を仕掛けるだけで、人は自ら罪に落ちてくれます。

 

 頑なに拒む者には、何度も何度も優しくも甘い言葉を囁き、一度くらいならいいかな、と思わせます。また、正しい道に戻ることを決めて、一度道を踏み外します。悪魔の手中にはまります。悪魔の戦略は、囁きから脅しに変わります。一度のつもりが、悪魔の支配下に置かれます。

 

 一度っきりのつもりだった罪を、悪魔はしつこく責めて来ます。そして、罪人のレッテルを張り、その人を牢に閉じ込めます。そして、罪を犯した事を恐れさせ、神から身を隠す事を教えます。アダムが善悪を知る木の実を食べた後、神を恐れて身を隠したのと同じです。神を恐れると、神が遠くに感じます。神に赦されたいけれども、どうしたらよいのかわからなくなります。

 

 イエスの血で聖められながら、イエスを裏切ったのです。イスカリオテのユダのように、イエスを裏切った自分の罪に苦しみ、もう赦されないと自分で判断し、自分を処罰する者もいます。もう、神の元には帰れないと、自暴自棄になる者、落胆する者もいます。これも、悪魔が仕掛けた罠です。

 

 悪魔は嘘つきです。神の赦しを疑わせ、いのちの希望を取り除くのも悪魔のわざです。キリストの血の効力は永遠です。イエスは、七度を七十倍するまで赦しなさい、と言われる方です。

 

 それは、ペテロの「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」と言う問いに対する答えでした。七度でも赦す事は容易ではありません。それを、イエスは「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」と答えられたのです。なんと、難しい要求をされるのでしょうか。一度や二度赦すことが赦しではなく、赦し続けることが赦しだと、教えられたのです。

 

 人に七度の七十倍の赦しを要求をされたイエスは、ご自身を与え、すべての人々の罪の身代わりとなって贖いの血を流された方です。ただ一度で、罪の贖いを全うされた神の子羊です。イエスの赦しは七度を七十倍する、と言うこの世の赦しに留まらず、この世を去った後にも続く、永遠の赦しです。

 

 永遠に赦されるとは、イエスの血には、すべての罪を贖う効力があるということです。すべての罪が赦されるのなら、人が犯す数々の罪は二千年前のゴルゴダの十字架で処罰され、もはや悪魔が訴えて来る赦されない罪は残されていないということです。

 

 悪魔は大噓つきです。永遠の赦しを約束しておられるイエスのことばを信じることが重要です。イエスは悪魔のように、約束を破ったり、何度も言葉をすり替えたり、量りを変えたりはされません。真理は移ろうものではないからです。神から来られたイエスは、真理のお方です。唯一真理に生き、この世に真理を与えられた方です。

 

 真理は堅く立ちます。イエスのことばは永遠に堅く立つのです。十字架で神の赦しは完成されました。キリストの血が赦しです。キリストの血潮の中に入る者は、罪に落ちても悔い改めるならば、赦されるのです。自分で責任はとれません。私達の責任を取ってくださるイエスに告白し、悔い改めるならば赦されるのです。

 

 イエスの血の中にいるから赦されるのではありません。罪を告白し、悔い改めるので赦されるのです。人が犯す罪は赦されます。イエスは言われました。「人はどんな罪も冒瀆も赦されます。しかし、聖霊に逆らう罪は赦されません。」

 

 イエスに逆らう言葉は赦されるのに、聖霊に逆らうことを言う者は、誰であっても赦されない、と言われたのです。聖霊の働きを悪霊呼ばわりしたり、聖なる御霊を汚す者は、クリスチャンであっても、神に仕える働き人であっても、魂を神に導いた良い働きをした人であっても、その聖霊に逆らう罪は永遠に残るのです。聖霊を侮る者の罪は、赦されないのです。

 

 ヨハネも言います。「誰でも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」

 

 罪には死に至らない罪と、死に至る罪があるようです。死に至る罪は聖霊を汚す罪であり、この罪はいのちの道を閉ざします。悔い改めて赦しを得る類の罪ではありません。死に定められた罪です。聖霊を汚す者は、神の御国を汚す者であり、聖霊に逆らう者は、神の国に相応しくない者である、という証です。

 

 人の弱みに働く悪魔と人の犯す罪、イエスはそれを足台とされます。イエスはそれらを踏みつけ、悪魔から奪い取った、信仰の勝利者達を救い出されるのです。悪魔も罪もイエスの足台であり、イエスの信仰者達を支配することはできません。

 

 イエスは、悪魔の訴える人の弱さを、勝利のしるしとされます。弱さがイエスの赦しと新しい創造の証となるからです。勝利の主イエスによって、人の弱さが神の勝利の栄光を放つのです。