ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

薄れゆく神の恵み

 

 キリストの愛を知った時、心ははじけました。ひとり抱えていた重荷を下ろして、枷をはめられた奴隷のようにうな垂れ生きる望みも喜びも無かった魂は、解放の時を告げられたのです。

 

 何という解放でしょう。私を縛っていた縄目は解かれ、邪悪な支配者である悪魔から救い出されたのです。心の闇は破られ、希望の光が差し込んで来たのです。弱り切っていた魂は活力を得ました。息絶え絶えに呼吸する体に、いのちの息が吹き入れられました。

 

 罪の呪いに脅され、悪魔に怯えていた私の恐れをイエスが背負い、悪魔に勝利して私の咎を見逃してくださったのです。罪を見逃されただけではなく、罪も罪の呪いも私から取り除いてくださいました。最後の裁きをされる神御自身が、罪を赦しあなたには罪が無いと宣言してくださるのです。

 

 私が何をしたというのでしょうか。出口の無い恐ろしい闇から助け出される事を、私の魂が求めていただけです。方法も道もわからずに、ただ助け出してくれるものを探し求めていただけです。この世にその術がないことを知り、目に見えない大きな力に向かって叫んでいました。私の魂は諦めなかったのです。

 

 人の知恵ではありません。目に見えない確かな存在が近づき、私に手を差し伸べたのです。闇の中でその御手はうっすらと光って見えました。それまで、肉眼で見えた救いの手は、目で見えているのに私を闇から救い出す手立てを持ってはいませんでした。現れては去り、どの手も私を滅びの穴から救い出すことができませんでした。

 

 目に見えないものが私をしっかりと掴み、私を滅びの穴から救い出してくれたのです。私を救い出す時に、私の罪も汚れもご自分の血で洗い流してくださいました。水で洗うのではなく、ご自分の血を注ぎ出して私を洗い、罪を拭い去ってくださったのです。彼は十字架にかかり贖いの血を流された神の子羊であり、死から復活されたキリストでした。

 

 私はこの方を知りませんでした。しかし、この方は私を知っておられたのです。私はこの方が、天の神が地に遣わされた救世主である事を知りました。神の御子でした。人間ではありませんでした。神の御子は永遠に生きる方です。永遠に生きる方が、死を処罰して、いのちを与えられたのです。

 

 私は,キリストの存在を知りませんでした。遠い外国の人であると言う事だけは知っていました。彼は、長い間、私とは接点の無い無関係の人でした。この民族も言語も違う外国人が、私を救い出してくださったのです。言葉の通じないはずの彼が、私の心の悩みも弱さも痛みも苦しみも私のことを私自身よりもご存じでした。私が母の胎内に入る前から、私を知っておられるようです。

 

 本当に不思議なことです。だんだんわかって来た事は、私は神に造られた存在であること、そして、外国人だと思っていたイエス・キリストは、私の魂の生みの親であるという事でした。私の父母が生みの親だと思っていましたが、父母は肉体の産みの親であって、魂の生みの親ではないことを知りました。魂を造ったのは、神であって、神は父母の間に働き母の胎内に私の魂を入れる肉体を造られて、世に送り出されていた事を知りました。

 

 私の魂を生んだのは、創造主である父なる神と御子イエスだったのです。父も母もまたこの方に造られた人でした。父も母も私が母の胎から出るまで、男の子なのか女の子なのか、どんな姿かたちの子なのか、どんな顔の子なのか、どんな性質の子なのか、何も知りませんでした。育てていく中で少しずつ知って行くのです。しかし、すべてを知ることは出来ません。

 

 父母から出て来た肉体は死にます。父母が亡くなったように同じ道を辿ります。しかし、神から出て来た魂は、生んでくださった神のように生きるのです。神が永遠に生きておられるように、魂は永遠に存在します。血肉の父母が教えることの出来なかった死後のことを魂は知っています。魂は神から出ているので分かるのです。

 

 魂は、死を恐れます。老いていくことを恐れます。病であることを恐れます。それは、魂の本当の姿ではないからです。魂は真実を捉えています。ですから、この世の肉体の歩みが実体ではないことを知っているのです。魂は、肉体に存在の実質がないことを知っているのです。

 

 イエス・キリストの血は、罪を赦して、魂の本当の姿を明らかにしてくださいます。罪を赦すのは、魂を回復するためです。悪魔の偽りに騙され、闇に閉じ込められ、死と滅びの恐怖に怯える魂に、神に造られた魂の本当の姿を明らかにされます。神が造られた魂は非常に良いものでした。怒りも憎しみも妬みも呪いも争いもありません。神の霊によって生かされる聖なるものでした。地上に歩まれた神の御子イエスの生き様が、本来の魂の姿を現しています。父を愛し、父とひとつなのです。

 

 聖なる魂は、神のみもとに帰りたいのです。神も魂を回復させたいのです。神の子羊イエスの血が、魂の回復の唯一の方法でした。

 

 人々は、知恵を出し合って、魂の向上を目指し、天に近づく努力をして来ました。天に永遠があることを知っていたからです。魂の平安を得る方法を探り求めています。しかし、方法をいくら発見しようとも、本当の平安は得られません。天にまで達する教えではないからです。

 

 神は、天から地に救い主イエスを遣わし、イエスの血を流すことで天に帰る道を設けられました。神の子羊イエスの血が肉体から魂を救い出し、霊のからだの新しい魂の姿を創造されるのです。

 

 イエス・キリストを信じるということは、滅びゆく肉体の呪いからの解放と魂の回復が約束されています。こんなに優れた救いを得ているのに、神の恵みを数えることができません。

 

 信仰の道を歩みながら、世に目を向け、自分達が惨めに感じたり、喜びや感謝することも空しく思うことがあります。イエスと生きた交わりを持っていないと、神の恵みを目撃する目が薄れて、思いが暗くなってしまいます。