神とともにあった、神のことば。神のことばは、神格者であり、知性と感情と意思を持つ方でした。世が始まる前からあったことばです。
受肉し神の子羊イエスとして地上に遣わされるまでは、天で神のことばとして存在しておられた神のひとり子。
父なる神とひとり子の関係は、地上の父と子の関係とは違うようです。互いに向き合って会話をしたり、ともに遊んだり、教えたり、養ったり、というようなことではないようです。
子は父のことばだったのです。父と一つということです。離れてあるものではありません。一体なのです。各々神格を持ちながら、ひとつの神でした。父の思いが子の思いです。父の意志を子が表現します。子が表現したものを聖霊がかたちにします。すべての事柄は父から発せられます。
子は、ただ見るまま聞くままに話すのです。子は、父と一つです。父の中に子がいます。子が父を信頼している、という表現では言い表せません。信頼というよりも、一体なのです。父の思いが子の思いなのです。世の親子関係では言い表せません。
正しい譬えではありませんが、例えば、子が父の口であると考えるならば、イエスのことばは、父のことばであり、天の神のことばなのです。イエスは、ご自身のことばや振る舞いで、地上において天の神を現わしていたのです。
人は誰も、天の神を目で見た者はいません。しかし、イエスを見た者は、天の神を見ているのです。また、今の時代では、受肉したイエスを目で見て、触った者はいません。しかし、神が遣わされた御霊が、復活したイエスを知らせ、イエスのことばを思い起こさせてくださるのです。
イエスのことばは神のことば。神のことばはいのちなのです。神のいのちは永遠のいのちです。イエスのことばの中に留まることは、永遠のいのちの中にあることです。
この世に生まれたすべての者が持つ命とは違います。木も植物も動物も昆虫も魚も人も、寿命が来ると朽ちて土に返ります。その命は肉体や姿の中に置かれた期間です。この命の期間に、魂を、はじめにあったいのち(神)に帰らせることが出来るのです。魂をはじめにあったいのちに帰らせるために設けられた、執行猶予の期間が人生です。
自分が神を神とせず、はじめからあったいのちから離れた存在であることに気づくための試みは、すべての人生に用意されています。ある人々は帰るべきところを求めて彷徨います。ある人々はそんなことにはお構いなしで自分の人生を満喫します。ある人々は滅びを予感して絶望します。ある人々は生きることの苦しみを克服するために奮闘します。
神のことばに出会った時、瀕死の魂は水を得た魚のように生気を取り戻します。神のことばはいのちだからです。いのちを求めている魂は、神のことばに辿り着くのです。
神のことばが永遠のいのちであることを、イエスは教えます。人々は、この世の命は仮住まいであって、やがて世から消え去っていくことを知っています。しかし、その知識があるからと言って、永遠の住まいを得るわけではありません。
イエス・キリストを人生に迎え入れるという事は、神のことばをいのちとして受け入れることです。いのちと言うからには、生き様とするということです。神のことばによって生きる人に、神は、イエス・キリストの御名を与えられます。イエスの御名が刻印された魂です。
イエスが刻印された魂は御霊とともにあって、いのちの書に名が記された魂です。いのちの書に名が記された魂は、永遠の住まいに迎え入れられる魂です。
はじめからあった神のことばが受肉して、神の子羊イエスとなられました。神の子羊イエスのことばと行いと御業のすべてが神のことばです。イエスの存在が神のことばでした。
神のお告げと言って、偽りを語る者達も大勢います。しかし、神のことばはイエスご自身です。イエスを否定する者のうちに、神のことばはありません。悪魔は、もっともらしいことを言います。真理に限りなく近いことを言います。しかし、その言葉に従うと、行き着く先は、神の用意された永遠の住まいではありません。
永遠の住まいは、イエスとともにあり、イエスのことばとともにあるのです。イエスのことばを思い起こさせてくださるのは、御霊です。真理の御霊は、イエスのことばを告げ、永遠の住まいへと導いてくださいます。
神のことばのうちに、安全な道があるのです。