ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人は何故生きるの

 

 咄嗟に命を守ろうとするのが、本能です。生き物は、生きるようにされているのです。魂は生きることを前提に生きています。何故、生きるのかという問いすら抱くことがありません。

 

 人が他の動物と違うのは、神が御自身に似せて特別に造られた被造物だからです。神の息が吹き入れられた、永遠に生きる存在だったのです。

 

 人には霊があります。神とひとつになる霊の受容体を持っているのです。他の生き物にはありません。彼らは、神とひとつになることはありません。しかし、存在そのものが、神の栄光を現わしています。

 

 神とひとつになるように造られた人は、考え創造する知性があります。この知性をもっても神の栄光を現わします。人の思いに浮かぶものはみな、神の中にあるものです。人が発見した、開発したと考えられているものすべて、もともとあったものです。人はそれらを組み立てて、今までなかったものを創造していきます。まるで、神が用意された積み木で遊ぶ子どものようです。

 

 神のことばのうちにいることが、神とひとつの状態です。エデンの園にいた、人類の祖先、初めの人アダムは、神のことばのうちにあった時は、幸福でした。疑い、恐れもなく、エデンの園の植物や生き物と調和し、平和でした。神とのコミュニケーションも日常のことでした。

 

 疑いのないエバは、蛇の言葉を受け入れました。神のことばの中にいたアダムにとっては未知の経験です。神が造られた生き物に名前をつけたり、エデンの園を耕したり、生き物に食べ物が行き渡るように管理したり、アダムは知性を使って働いていました。しかし、神に関しては知性を使う必要がありませんでした。神のことをあれこれ考える必要はありません。神のことは神御自身とコミュニケーションをとっていたので、何も思い煩うことはなかったのです。

 

 中央の木の実は食べてはならない、とだけ神から命じられていました。何故か、と疑問に思うことはありません。神が食べてはならないと言われるから食べない、これがアダムの生き方でした。神が言われることに疑問を持つことはありません。神の言われることをそのまま受け入れました。それが、神のことばの中にある在り方だったのです。

 

 神のことばの中にいなければならないと努力したのではなく、神のことばの中にあったから、神の思いとひとつだったのです。

 

 アダムから取られたエバは、アダムとひとつの者でした。アダムの生き方の中にエバもありました。エバは中央の木の実を食べてはならないことをアダムから聞き、理由はわからないけど、アダムのように、中央の木の実を食べることはありませんでした。

 

 エバは、蛇に話し掛けられました。中央の木の実が、善と悪を知る知識の木だと知りました。人は、神から知識を得ていました。神の持つ知識を人も持てたら、神に聞かなくても自分で物事を判断し、自分の思い通りにできることが何か良いことのように思われました。自由とか不自由とかの概念はまだありません。何か良いような気がしたのです。

 

 聖書にはさらりと短い記事で事実だけが記されていますが、蛇は言葉巧みにエバに色々説明したのではないかと思います。「食べてはならない」というアダムから聞いた神のことばによって守られていたエバの心に、滑らかな言葉をもって関心を抱かせました。疑いということを学んではいないエバです。アダムの言葉をそのまま受け入れていました。アダムの言葉を否定する言葉があることは知りませんでした。エデンの園は、神のことばの中にあったのです。

 

 エデンの園にやって来た悪魔は、蛇に悪魔の言葉を授けたのです。狡猾な蛇は、悪魔の言葉を食べ、悪魔の言葉を語りました。エバは、エデンの園を楽しんでいました。何の不満もありませんでした。しかし、初めて聞いた蛇の言葉には不思議な魅力がありました。エデンの園には、悪い者はいません。騙したり騙されたり裏切ったりなんてことは、経験することがありません。すべてが、神によって守られていたのです。

 

 エバは蛇の言葉を受け入れました。退けることを学んでいなかったのです。アダムも反対意見に対する対処の仕方を知りませんでした。悪魔という神の敵の存在をアダムは知らされていなかったのかも知れません。

 

 結果的に、エバもアダムも中央の木の実を食べて、神のことばから出たのです。神のことばから外れた人は、神とひとつではなくなりました。悪魔の言葉に従い、悪魔の捕虜となったのです。悪魔の言葉を食べ続けるうちに、人は悪魔のようになり、悪魔の子となった者もいます。すべての人は、神のことばから離れ、悪魔の言葉を食べる罪人となりました。

 

 悪魔の奴隷、罪人はうめきました。魂は神とともにあったのです。魂は、神の聖と愛と義と平和を味わっていたのです。しかし、肉体を持つ世界は過酷でした。憎しみ、怒り、妬み、争いに感情は乱れ、他人を蹴落とし他人を騙すことに知性を使います。魂は安息を求めています。

 

 魂は肉体の苦しみを通して、魂のあるべき姿に目覚めます。この目覚めた魂に、本性の生き方に帰るための道を、神は設けられました。イエス・キリストの十字架の血と復活のいのちです。

 

 人は何故生きるのか。それは、神が設けられた道を通って、神のことばの中に帰るためです。人が生まれて来たのは、魂の救いを得るためです。神のことばから外れた魂が、イエスの言葉のうちに入って聖められ、神のことばのうちに帰るためです。

 

 この地上で成功するためでもなく、栄光を受けるためでも、立派な人になるためでもありません。神の目的は、この世の苦しみの中で、魂の苦しみは神から離れたことが原因であったことに気づき、神が遣わされた神の子羊イエスを救い主として信じ、神の御子イエスの御名によって、キリストの御霊とともに神の国に入ることです。

 

 神の国に入ること、それが、地上で人が生かされている目的です。