ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

御霊によって神の子

 

 キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ書8:1)

 

 キリストにある者とは、8:9にこう書かれています。「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」つまり、神の霊である御霊がうちにおられる人です。

 

 御霊は、キリスト・イエスを死者の中から甦らせた方です。御霊がうちに住んでおられるならば、キリストに起こったことと同様のことが起こるのです。イエスを信じる私が救われるのではなく、うちに住んでおられる御霊と御霊に導かれる私の霊が神の子の証となるのです。

 

 私は神の子、創造主と信じても、イエスの御霊がおられなければ、イエスに起こったことと同様のことが起こるわけではありません。私が復活の力を持つ神の子になったわけではなく、復活する神の霊(御霊)の本性によるものです。御霊には肉がありません。死がありません。いのちしかないのです。復活と永遠のいのちは、神の国に導く神の御霊のわざであり、御霊の初穂(神の子の長子イエス・キリスト)の贖いのわざです。

 

 御霊は、神の子どもに「アバ、父」と神を呼ぶ信仰を与えられます。神の子どもは神の奴隷ではありません。主人である神を恐れる必要はありません。神は、神の子と認める者に確認の印を押し、保証として御霊を神の子の心に与えてくださいました。

 

 御霊がうちに住んでいる人、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してない、と聖書に書いてあります。この罪とは、死に価する裁きが伴う罪のことを言っています。キリスト・イエスにある者は、いのちの御霊の原理によって、罪と死の原理から解放されているからです。

 

 たとい罪を犯しても、我に返り父に悔い改めて立ち返るならば、父は神の国にその人を迎え入れられるのです。御霊ではなく、肉に従う時に罪が入り込むことがあります。不信仰によります。しかし、神の子として認められ確認の印が押された者に、神は父として保証人になってくださるのです。

 

 イエスは言われました。「あなたがたを孤児にはしない。」神の家族となった人を家族として保証してくださいます。家から追い出しません。保護者のいない人にされません。面倒を見てくださるのです。

 

 悔い改める者を赦してくださいます。何度でも赦してくださいます。死から救い出した魂です。悪魔から買い戻した魂です。放蕩息子の父親は、息子を心配し、戻って来るのを待っていました。神の家を見限って出て行ったのは息子です。父に勘当されたわけではないのです。

 

 神から離れるのは、人の方です。神から離れることはありません。イエスを愛する人は、御霊も愛します。御霊を愛する人は父を愛します。そして、父を愛する人は父に喜ばれることを願いとします。

 

 イエスを信じることが御霊の住まいとなり、御霊の導かれる道に歩むことがイエスを愛することです。イエスを目の前に置く人は、御霊の教えを喜んで聞きます。

 

 御霊の中に、神の国があります。御霊は神の力と愛と平安と喜びに満ちたお方です。神の国には、不安も心配も恐れもありません。人がうちなる御霊に思いを合わせるならば、イエスの信仰に合わせられて行きます。常識では無理と思われることも、制限のない御国の恵みで心に希望の灯をともしてくださいます。

 

 イエスは病人を癒し、死人を甦らせ、魚からお金を取り出し、嵐を鎮められました。このイエスの信仰が御霊にあるのです。御霊の信仰に合わせると、イエスがされたと同じことが起こるようです。

 

 御霊の信仰を受け取る時、それは人から絞り出した信仰ではなく、神の御子イエスの信仰に接ぎ合わされているのです。信仰はイエスのものです。イエスに繋がる時、イエスの信仰がその人を通して表されて行くのです。

 

 イエスと父なる神は人を愛して、弱い肉体の土の器に聖なる御霊を住まわせてくださいました。100%神であられる神の霊です。肉の思いの無い方です。肉によって生きて来た100%肉体人間の土の器に住んでくださり、神の子の生き方を教え導かれます。御霊に導かれて歩むうちに、御霊によって霊が聖められ、肉体を持ったままで神の御国で生きる者のように、平安と喜びで満たしてくださるのです。

 

 良い者になったわけではありません。御霊が霊を聖め、神を知る者としてくださり、魂を喜びで満たしてくださるのです。自分の努力でそうなったのではありません。ただ御霊にすがって歩んでいただけなのに、気がついたら、御霊に思考も好みも変えられていたのです。日々新しい発見と不思議を体験させてくださいます。

 

 「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(コリントⅡ4:16)は、真実な言葉です。

 

 イエス・キリストを愛しており、見てはいないのに信じており、言葉では言い表せない恵みに満ちた喜びに踊っているのは、信仰の結果である、魂の救いを得ているからなのですね。これが御霊のわざです。