ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

二本のオリーブの木

 

 大祭司ヨシュアの周りには、同僚がいます。彼らは、しるしとなる人々です。イザヤ書8:18に、「見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、シオンの山に住む万軍の主からのイスラエルでのしるしとなり、不思議となっている」と言われています。大祭司ヨシュアと同僚が、主から与えられるイスラエルでのしるしであり、不思議となる人々だと思います。

 

 この大祭司ヨシュアの前に、主が、主のしもべ、一つの若枝(ゼルバベルと思われます)を来させるのです。この一つの若枝は、黙示録12:5に書かれている女(イスラエル)が産んだ男の子を表しているのでしょう。

 

 この女は、太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっています。創世記37:9に、ヤコブの子ヨセフの夢が書かれています。「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいる」という夢です。父ヤコブは、「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか」と言って叱りつけています。

 

 それで、太陽は父ヤコブ、月は母上、十一の星は、ヨセフの十一人の兄弟たちであることがわかります。このヨセフの夢は、ヨセフがエジプトの大臣となって、父母兄弟たちを養ったことで実現しました。

 

 黙示録12:1、2に、「また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、身籠っていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた」とあります。

 

 ひとりの女は、太陽(父なる神)を着て、月(神の御子イエス)を踏みつけ、十二の星の冠(ヤコブの十二部族)を頭にかぶった、契約の民アブラハム、イサク、ヤコブの子孫のユダヤ民族、或いはユダヤ教徒のからだであるイスラエルを表します。

 

 この女(アブラハム、イサク、ヤコブの子、契約の民である血肉のイスラエルのシナゴーグ)から生まれて来る男の子を食い尽くそうと待ち構えている竜(悪魔)がいます。イエスが生まれた時は、ヘロデ王が「ユダヤ人の王」として生まれた男の子の存在を知ると、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させました。

 

 終わりの時代のイスラエルに、イスラエルと世界の人々を救いに導くイスラエルが産んだ男の子が立つのです。ユダヤ教徒の中に現れるキリストのしもべです。その子の存在を知った七つの頭と十本の角を持つ獣(反キリスト)は、彼を殺そうとして、イスラエル全体を苦しめます。その子は、二本のオリーブの木の一本、ゼルバベルの霊を持つ、ユダの総督(ユダヤ人の指導者)となるのでしょう。

 

 ゼカリヤ書3:9で、「見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む」とあります。神の啓示を受けるひとりの日本人の周りには、彼のことばを聞いて神のことばに従う人々が集まっています。彼らは、第三神殿の礎を築く人々です。日本国だけに、十四万四千人の十二部族のユダヤ人が全員集まっているのか、或いは、十二部族の召された人々が世界の国々に点在しているのかはわかりません。日本国にいて、ひとりの日本人の教えに従っている可能性はあると思います。

 

 日本が島国であり、歴史上他の民族が流入しにくい状況であったことを考えても、神が、遥か昔にユダヤ人を日本列島に集めて他民族と混じり合わないように守り、終わりの時代の血肉のユダヤ人の使命を果たすために働いておられた、と考えることもできます。神の神殿を建てるのは、契約の民、純粋なヤコブの子でなければなりません。

 

 ゼルバベルの霊の人が、大祭司ヨシュアの霊の人を訪ねて来ます。ヨシュアも彼が来ることは神に知らされているのでしょう。ゼルバベルの霊の人が来ると、すべてが明らかになります。大祭司ヨシュアの霊の人にことばを賜ったのは、十字架にかかられた主イエス・キリストであること。大祭司ヨシュアが仕えていたのは、イエス・キリストの父なる神であること。大祭司ヨシュアは、イエス・キリストを信じます。

 

 黙示録7:3に「私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも害を与えてはいけない」とあるように、ゼルバベルの霊の人と大祭司ヨシュアの霊の人は、ヨシュアの前にいる同僚に、印を押します。この印とは、生ける神の印(子羊の名と子羊の父の名)です。彼らの思いに書きつけるのです。(黙示録14:1)七つの目を持つかしら石に彫り物を刻むのです。(ゼカリヤ書3:9)

 

 黙示録14:4、5に、この十四万四千人について、書かれています。「彼らは女によって汚されたことのない人々である。彼らは童貞なのである。彼らの口には偽りがなかった。彼らは傷のない者である。」

 

 十四万四千人の血肉のユダヤ人は、宗教の霊に汚されていない人々です。ユダヤ教徒でもなく、日本神道の氏子でもなく、仏教徒でもキリスト教徒でもありません。宗教に関わった事のない人々です。人間の教えの影響を受けていない人々です。宗教は信仰ではないからです。信仰は神からのもの、宗教は人のしきたりや伝統によるもの、人の教えが混ざったものです。信仰も宗教になると、純真な真理ではなくなります。

 

 彼らは、心で真理を求め、目に見えない神を畏れ正しい生き方をして来た不思議な人々です。聖書が書かれる前にあった、アブラハムの信仰のようです。宗教を強いらない日本だから守られて来たのでしょう。彼らもまた、彼らのうちにあり、彼らが守って来た良心が、イエス・キリストとイエスの父なる神御自身であることを知り、子羊イエス・キリストの行く所には、どこにでもついて行く人々となるのです。

 

 二本の金の管によって油を注ぎ出す、オリーブの二本の枝は、全地の主のそばに立つ、ふたりの油注がれた者です。

 

 反キリストに命狙われた若枝(ゼルバベルの霊の人)は、主の神殿を建て直す者です。彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座について支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある、とゼカリヤ書6:12,13に書いてあります。