キリストを信じる者に、死はありません。
イエス・キリストのうちにあって、イエスとともに十字架にかかり肉はすでに死んでいるのです。
キリスト・イエスを主と告白する人の、魂の所有者はキリストです。魂の主人はひとりです。魂は主のうちにあり、その人自身は主のいのちで生きる者とされます。
キリストが罪を贖い、死から復活された時、イエスにある者はキリストと共に罪に死に、死から復活して永遠に生きる神の子としてくださったのです。これが真理です。
肉体が死んでから復活して神の元に行くのではなくて、肉体の中にあっても、霊はキリストの復活のいのちで生きています。何故ならば、キリストの霊であり、神の霊である御霊が住まわれる、聖霊の宮となったからです。
キリストを信じる信仰を与えられたのは神であり、信じる選択をしたのは聖霊の働きによるのです。すでに聖霊にとらえられているのです。
肉の欲望によって歩まず、御霊に従うのは、神の子だからです。キリストを信じると言いながら、肉に従うのは、御霊に教えられていないからか、初めから神に属していない者であるのかも知れません。
キリストのいのちにある者は、決して死にません。肉体の死を体験するかも知れませんが、それは肉体を脱いだだけのことです。永遠のいのちを持つ者は、死の間際に天からの迎えが来て、肉体から抜け出した霊と魂が神の懐に入ります。
心臓が止まると死んだと判断されますが、信仰者にとっては神と分離させていた肉体(古い着物)を脱いで、霊なる神とひとつとなる天の扉が開く時です。天から引き離し地に結び付ける肉体から解放され、永遠の自由の中に入る祝福の時です。全き愛、全き光に帰る時です。
キリスト者の中には、殉教者として導かれる人々がいます。主イエス・キリストもそうでした。神を信じ従うゆえに、この世の君悪魔に憎まれ殺される人々です。彼らは死によって神の栄光を現わす人々です。この世の人々は死んだら終わりだと嘆きます。しかし、彼ら殉教者は、死の向こうに永遠のいのちがあることを知っています。
殉教者の死は、神の国の誉れです。信仰の証です。彼らの心は、この世に執着せず、復活のキリストの栄光を見ます。目に見える現象は消えゆくものであることを知っているからです。世からキリスト者を消滅させることに勝利を味わう者たちの手によって、殉教者たちは神のもとに帰り、義の栄冠を受け、神の愛に安らぐのです。
しかし、目の前で勝ち誇っているこの世の人々はやがて、空しく死と滅びの世界に落とされます。死後の世界は逆転します。肉の思うままに自由に生きていたこの世の子らは、闇の中で永遠にもがき苦しみます。彼らの愛した自由が、彼らを闇の獄屋に閉じ込めます。永遠にそこから抜け出ることは出来ません。闇が永遠の住まいとなります。肉を愛した彼らは、肉体を脱ぐと闇を羽織ります。この世の主人であった彼らは、永遠に悪魔の奴隷となるのです。
神を信じ神の御子イエス・キリストを愛する神の子らは、肉体を脱ぐと、新しい霊のからだが与えられます。イエス・キリストと同じになるのです。全き光の世界、愛と平安の神の御国で、神を褒めたたえ神を喜びます。神の奴隷としてこの世の寄留者であった彼ら一人一人に住まいが与えられます。この世で神の奴隷であった彼らは、神の子となり、キリスト・イエスとともに、神の御国を相続するのです。
キリスト者にとって、死は肉体を脱ぐ神のわざです。天に帰る、霊の扉です。この地上に肉体を脱いで、御霊のうちにある霊と魂が、神の懐に帰るのです。自分が生まれ出たいのちの根源に帰ります。平安を取り戻します。
キリストと一つになっていない者にとっては、死は、神との永遠の別離となります。この世で得たものをすべて、この地上に置いて行きます。何一つ持って行くことが出来ません。地位も名誉も財産も肉体とともに取り去られ、裸になった霊と魂が神から遠く離れ、闇に落ちるのです。彼らにとって、この世の生き様は何の益ももたらしません。
人はそれぞれ、母の胎から裸で生まれ出て、置かれた環境の中で学び成長します。目標を持って生きる人もいます。嘆きや苦しみ、悲しみや痛み、喜びや楽しみを通して人生を体験します。命を与えた神は、一つの目的があって人々を世に生み出されました。神が天から遣わされた神の御子イエス・キリストに出会い、キリストとともに神の懐に帰るという目的です。
本人の選択によって一人一人がオリジナルな人生を送ります。同じ家族、同じ地域、同じ民族、同じ国であっても、一人一人の独自の生涯となります。彼らの共通点は、同じひとりの神によって命が与えられており、この地上で神の試験(生涯)を受けていることです。そして、寿命があり、死によってこの世を去ります。その死後に、神の試験の合否の結果を受けるということです。
イエス・キリストの御名と御霊の証によって、永遠のいのちを受けて神の子とされる神の民にとって、死は滅びではありません。古い着物である肉体を脱いで、神とひとつになること、神の栄光に入ることなのです。
神に立ち返った者は、肉体を脱ぐと神の懐に帰るのです。