日本人には信じ難いお話です。皇室のことです。
令和の天皇が皇太子であった頃のことです。浩宮様(現今上天皇)、礼宮様(現秋篠宮)は、幼い頃から似ておられないご兄弟でした。昔の皇室の映像を観るといつも思っていました。
昭和天皇ご夫妻を囲んでの記念撮影の時の様子が映し出された時のことです。美智子様おひとりがそわそわして、このご家族の中で浮いた感じなのを捉えた時、(あ~。やっぱり平民なのだ。)と直感的に思いました。
皆、お子様までが微動だにせずにキリっとしておられる中で、幼い礼宮様と美智子様は違いました。美智子様は平民ご出身と言っても社長令嬢だから、一般民とは違うと思っていたのに、やっぱりお育ちが平民なのだ。華族の家柄ではない。香淳皇后とは違うなぁ、と感じたものでした。
皇太子(現今上天皇)と秋篠宮はどうしてこんなに違うのかと思い巡らしていた時です。秋篠宮の魂は、皇族で生まれるはずの魂ではないこと、生まれつき平民の魂であることに行き当たりました。どういうことなのだろうと思いつつも、秋篠宮には、皇族のスピリットがないことはわかりました。秋篠宮が持っていないのではなく、もともと皇族のスピリットで生まれていないから、皇族の魂になることは無い、と理解しました。
秋篠宮と紀子様を見ながら、いつまで皇族ごっこを続けるおつもりなのか、と以前から思っていました。
十年以上前に、実家から公務で地元に来られた際の美智子様の車中から手を振っておられるスナップ写真が送られて来ました。それを私は大切に飾っていました。しかし、数年前のことです。その写真が目に入った時、とっても嫌な気持ちがしたのです。吐き気がしたのです。何故だろうと思い、手に取ってじっと見ました。すると、その笑顔からとても嫌なもの、色情のようなものを感じ、気持ち悪くなって捨てました。ずっと気づかないで見ていたのに、突然感じて、感じると気持ち悪くなって捨てました。
その前だったか、美智子様がテレビで、何か作文(?)のようなものを読んでおられました。そのお顔、風情からも聖くないものを感じていたのです。また、食事をしておられる映像が一瞬流れましたが、その時、箴言30:20のみことばが心に浮かびました。まだ、何も知らない時にです。
真子さんの結婚に伴い、秋篠宮家のことにスポットが当たるようになりました。様々のことが明らかになってきました。
今では、秋篠宮が美智子様のお子様ではあるが、上皇様のお子様ではないことがわかってきました。つまり、天皇家の血統ではない人が宮家になっているということです。合点がいきました。国民は知らない方がいいと言われていますが、イエスの弟子は真実を知る必要があります。
男系にこだわり形だけを追うならばそれで良いのかも知れませんが、天皇は国民代表の祭司です。神の御前に立つ人です。ユダヤ人にも血統を重んじられる神は生きておられます。アロンの系図以外の者は、たといレビ人でも退けられる主です。神に仕える天皇の血統が正しくないことは、神を冒瀆することだと思います。国民を騙すことよりもいけないことです。
昭和天皇の血を受け継いでいる人は、上皇様と令和の天皇と愛子様と、平民になられた黒田清子さんの四人だけです。昭和天皇が「浩宮の次の天皇は浩宮の子がなるべし」と言っておられた意味がわかりました。
浩宮は平民の魂の礼宮の存在によって、皇族とはどうあるべきかを熟考されたでしょうし、皇太子は秋篠宮家の存在によって皇族の子育てはどうあるべきかを熟考され、天皇家の気品を磨いていかれました。礼宮、秋篠宮の役割はちゃんとありました。
かつては、美智子様をエステルのようだと敬っていましたが、今では一変して、アハブ王の妃イゼベルのようだと思っています。上皇の血統を継がない我が子を天皇の座に着かせることに邁進しています。
バプテスマのヨハネの父ザカリヤは、「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」と聖霊に満たされて、預言しています。
バプテスマのヨハネは、キリストの出現を知らせ、「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方の靴の紐を解く値打ちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」と民衆に福音を伝えました。
イエスはバプテスマのヨハネから、水のバプテスマを受けられました。その時、御霊が鳩のように天から下って、イエスの上に留まられるのをヨハネは目撃したのです。
バプテスマのヨハネは、神から「聖霊がある方の上に下って、その上に留まられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」と告げられていました。
それで、バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」とイエスがキリストであることを証言しています。
ヨハネは、弟子たちに言っています。「あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿の言葉に耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」ヨハネは、自分をイエスの友人として表現しています。
しかし、マタイの福音書9:15で、イエスは断食しない弟子達を友人として表現しておられ、断食するヨハネとヨハネの弟子とは区別しておられます。つまり、イエスはヨハネを友人に数えておられないのです。
イエスの噂はユダヤ全土に広がっていました。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられています。しかし、バプテスマのヨハネは、使いを送ってイエスに尋ねました。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」
何ということでしょうか。聖霊が下られたのを目撃し、「この方が聖霊のバプテスマを授ける方である」とヨハネ自身が証言したイエスです。ヨハネ自身が、「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」と証言したイエスです。それなのに、バプテスマのヨハネはわからなくなっていました。
イエスは言われました。「誰でも、わたしにつまづかない者は幸いです。」
イエスは、民衆に言われました。
「あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」
天の御国の一番小さい者の方が、バプテスマのヨハネよりも偉大だと言われたのです。何故なら、その人は永遠のいのちを持っているからです。バプテスマのヨハネは、イエスへの信仰を失ったのです。
神の子羊であると知っていながら、何故、バプテスマのヨハネは、イエス・キリストに従う群れの中にいないのか、何故、イエスについて行かないのか、ずっと不思議に思っていました。
ようやく謎が解けました。真実には、不可解なことがありません。すべてが、一本につながるのです。真理を求める人はイエスを求める人です。イエスを求めることで、真実を知ります。真実はいつも、人にとって良いものとは限りません。人は真実を知りたくないと思います。神は、真実を知らなくても、闇の深いところを知らなくても、イエスを愛する者を守ってくださいます。
ただ、私は、真実を知りたいのです。神から出ていない人を支持して的外れにならないためにも、神の御心を知らない者でいたくないのです。