「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。主の御名ははむべきかな。」(ヨブ記1:21)
それまで、自分を楽しませていた財産を失い、十人の子どもを一時で失ったヨブは、今までの祝福された生活は神が与えられたものであることを告白し、自分は神の御手の中にある粘土のように捉えて、神を呪うことはありませんでした。
神と人との関係を、創造主と被造物として捉えていました。自分は裸で母の胎から出て来て、また、裸でこの世を去る。何も持たずに、からだだけで世に生まれた人は、また、世で得た家族や家や財産の何も持たずに、世を去る。お金持ちも貧乏人も家族のある人も身寄りのない人も、皆等しく死んでいく。
祝福されたヨブは、その祝福が自分から出たものでないことを知っていました。命が自分のものではないことも、それを管理される方の存在も知っていました。
ダビデの子、大いなる方の祝福を受けた知恵者ソロモンは、すべてが神の御業であることを悟りました。神は人を正しい者につくられたが、人は多くの理屈を探し求め、道理を失ったことを知りました。
知恵ある者も愚かな者とともに死んでいく。みな同じところへ行く。すべてのものは塵から出て、すべてのものは塵に帰る。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないこと、また、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見出すよりほかに、何も良いことがないことを知りました。そして、このことも、神の御手によることであり、神から離れて、食べ、楽しむことは、風を追うように空しいものであることを悟りました。
人が食べたり飲んだりし、すべての労苦の中に幸せを見出すこともまた神の賜物であること、神のなさることはみな永遠に変わらないこと、それに何かをつけ加えることも何かを取り去ることもできないことも知りました。
人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見出すよりほかに、何も良いことがないこと、これも神がされていることであり、神を畏れることが人の持つ財産のすべてであることを悟りました。
人は神が行なわれる御業を、初めから終わりまで見極めることができない。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがない、と悟ったのです。人は、神に造られたもの。神の御手のうちにあって、感謝し、日々を楽しむことが、命の主権者を知ることでした。
神は、人の心に永遠への思いを与えられました。この永遠への思いが、人を目に見えない神へと導くのです。感謝は、満足な気持ちを表しています。満足な気持ちは、造ってくださった神への感謝です。
神のなさることは、すべて時にかなって美しい。壁にぶち当たった時なのか、四面楚歌状態に陥った時なのか、日々の感謝の延長なのか、神に引き寄せられ、神に出会うときが用意されています。
すべてのものを失っても尚、地にひれ伏して神を礼拝したヨブでしたが、神の許しの中で、全身悪性の腫物の苦しみを味わうこととなりました。妻も友人もが落胆しているのを見ると、ヨブは自分の存在を呪いました。友人たちが、ヨブに罪があるとして責めたてた時、自分の義を主張し、神は残酷な方に変わられた、と嘆きました。
神は仰せられました。
「天の下にあるものはみな、わたしのものだ。誰がわたしに献げたのか。わたしが報いなければならないほどに。誰がいったい、わたしの前に立つことができよう。」
天と地にあるものすべて、神のものです。祝福も呪いも神の前にあります。誰に言われて、神が祝福したり、呪ったり、報いを与えるのでしょう。神御自身です。神に命令するものはありません。
神が、天地万物の主権者です。すべてのことを御自身で決め、事を行っておられるのです。すべては神から発し、神によって成り、神に至るのです。
神から出たものは、神によって形づくられ、神に判断がまかされるのです。自分で生き、自分で行なったと思っている行ないも人生も、最後には、神に評価されるのです。神御自身が、母の胎に形づくった人をご覧になり、地上で成長した魂の選別をされます。
主権者(地上に遣わされた神の御子イエス)を主(主権者)とした魂の良い実は、天の倉におさめられます。そうではない、傷のある実は、全知全能の大能者の御前に立つのに、ふさわしくはありません。
神は聖であり、完全な方です。神の御前に立つ者もまた、聖(キリストの血の贖いを受ける者)であり、完全(御霊に証される者)でなければならないのです。
聖であるのか否か、義とするか不義なのかは、人が決めるものではありません。裁きをもって報いられる、唯一の主権者、主が判断されることです。
地上に来られた主権者がおられます。天から来られた方です。神が遣わされた神の子羊イエス、イエス・キリスト、ただひとりです。天においても地においても、主権を持つ被造物は、イエス・キリストただひとりです。