ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ユダヤ人に学ぶ

 

 ユダヤ人には選民意識がありました。彼らは神の民です。神との契約があります。信仰の義人、国々の父アブラハムと国々の母サラから始まった、神の祭司の国民です。

 

 全世界で唯一、創造主を民族の神とし、天地万物を造られた全能の神に仕える国民です。創造主である主は、御自身で、「イスラエルの神」と名乗っておられます。神は、イスラエルに救いを用意しておられました。世を救う救世主です。彼は、アダムの子孫「人の子」として、ユダヤ人の処女から生まれました。

 

 イスラエルの神は、イスラエルの民の中に、肉体をもって、天から来られました。ユダヤ民族が仕えて来た全能者が、御自身のひとり子を、イスラエルにお与えになったのです。ユダヤ民族は、天の神と地の人を繋ぐライフラインであり、神が造られた民族です。

 

 ユダヤ民族には、神のことばが与えられており、神の民として守るべき律法や規定や祭りが与えられています。特別な民です。人類は平等という思想がありますが、全能者に仕えるように創造主が任じられた民族は、ユダヤ民族だけでした。神が任じられたのです。

 

 ユダヤ民族は、神の民という意識を持ち、異邦人とは区別していました。神の聖なる民としての自負がありました。神の民ゆえに、神に敵対する国々の民から苦しい目にあいました。ユダヤ民族は、救い主を待ち望んでいました。イスラエルからメシアが現れることは、預言書にも書かれています。

 

 神のひとり子が人となって、ベツレヘムで生まれました。預言通りに、イエス・キリストは、世に来られたのです。彼は、イスラエルの神であり、イスラエルの王です。しかし、イスラエルの王となるためには、呪われ木にかけられて贖いの血を流す神の子羊としての生涯と、死に勝利して墓から復活するキリストとならなければなりません。

 

 イエスは神の子羊として祭司のユダヤ民族に屠られ、聖霊の力で死から甦り、復活のからだで永遠に生きるキリスト(救世主)となられました。肉体を持つ人の子イエスが、復活のキリストとなられたのです。そして、天に帰られたキリストが、地上に聖霊のバプテスマを授けられたのです。

 

 預言者たちの預言は、ナザレのイエスによって、ことごとく成就しました。その時代のユダヤ人たちは、肉眼で、天から来られた救い主を見たのです。イエスのされる奇跡やしるし、権威ある神のことばを見聞きしたのです。しかし、指導者たちは、イエスを信じませんでした。イエスを憎み、民衆を扇動して、「イエスを十字架につけろ」と叫んだのです。

 

 宗教家にとって、イエスは邪魔な存在でした。名誉やお金を愛する宗教家は真理から遠く離れていました。そして、民衆の目を覆い、見えなくさせていました。真理の光は、彼らの闇を暴きます。それで、彼らは真理を憎みました。イエスが真理を語る時、祭司らレビ人は、祭司職の系図にないイエスを蔑みました。

 

 指導者たちは、自分たちを高く上げてくれるメシアを望んでいました。それなのに、イエスは自分たちを偽善者扱いするのです。「忌まわしいものだ。パリサイ人。あなたがたは、公義と神への愛とをなおざりにしている。」「あなたがた律法の専門家たちも忌まわしいものだ。あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本も触ろうとはしない。」「忌まわしいものだ。律法の専門家たち。あなたがたは、知識の鍵を持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」彼らは、イエスに侮辱されたとして、イエスに対する激しい敵対心を持ちました。

 

 神に仕える専門家たちは、天から来られた神の御子を信じないばかりか、敵対したのです。神のことばを教え、民衆に神を知らせなければならない、専門家たちが、預言書に書かれたメシアが目の前に来ているのに、それを悟ることができませんでした。

 

 指導者たちに従うユダヤ教徒たちも同様です。悟ることができませんでした。神の民と自負していたユダヤ民族が、彼らが仕える全能の神が遣わされた、神の御子イエス・キリストを捨てたのです。

 

 クリスチャンは、他人事のように思っていますが、ここに大切な学びと警告があるのです。教会に聖霊が注がれると、聖霊を悪霊呼ばわりする指導者が起こります。ユダヤ民族に起こったことが、神の選びの民と自負するクリスチャンの間でも起こるのです。

 

 イスラエルは神の選びの民です。しかし、彼らはイエスを拒んで、救いを受け取ることが出来ませんでした。イエスを信じる異邦人に救いが及んで、ユダヤ人の多くは今も、イエス・キリストの恵みを知りません。

 

 終わりの時、教会に聖霊が注がれます。パリサイ人のように律法的にイエスを信じる者は、それを受け取ることが出来ないかも知れません。自分の価値観と相容れない事が起こったり、自分たちの信仰の在り方を否定されるように、古いものは砕かれます。

 

 イエスが、「新しい教えをしている。異端だ」と非難されたように、聖霊の力が臨む時、肉なる人々はうろたえ、聖霊の力を悪霊の仕業だと言って御霊を消すのです。肉なる者が、霊なる者を迫害します。こうして教会は、神を畏れ御霊につく人々と、人間を怖れ御霊を消す人々に分かれるのです。

 

 真理は文字ではありません。御霊であり、力です。

 「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(コリントⅠ4:20) 

 

 信仰が、人間の知恵に支えられず、神の力に支えられるために、御霊の御力が現され、御霊のことばによって御霊のことが解かれます。(コリントⅠ2:5,13)

 

 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。何故なら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(コリントⅠ2:14)

 

 古い契約の神の民「血肉のイスラエル(ユダヤ民族)」は、イエス・キリストによって、御国に入る神の民と、御国の外の神の民に分かれました。

 新しい契約のイエス・キリストの民「霊的イスラエル(キリスト教会)」は、聖霊によって、御国に入るイエスの民と、御国の外のイエスの民に分かれるのです。