ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

神の御前にある罪の呪い

 

 神に敵対した大天使ルシファー。彼は光り輝く天使長でした。天使たちを治める権威が与えられた大天使でした。神から一目置かれ、天使たちからも敬愛される、麗しい天使でした。神に喜んで仕える天使長が天使たちを治め、天の御国は調和が取れていたのです。

 

 神にひとり子がいました。後に受肉したイエスです。神は、ひとり子に主権を与え、御国を治めさせることを決めておられました。天使長ルシファーは、御子に妬みを覚えました。その権威は、天使長のものだと思っていたからです。

 

 妬みに燃える天使長は、御子の主権に敵対しました。ルシファーは御子を軽んじました。神に対しては絶対的に従順な天使長でしたが、御子の主権に対してはそうではありませんでした。マタイ21:33-40に書かれている、葡萄園の主人の息子を殺して、息子のものになるはずの財産を手に入れようとした農夫のようです。ルシファーの心は神のひとり子に殺意を持ちました。消し去りたかったのです。

 

 神の御国は、神の主権に逆らうルシファーを止めることが出来ませんでした。ルシファーの妬みは、火のように燃え上がりました。

 

 箴言27:4に、「憤りは残忍で、怒りはあふれ出る。しかし、妬みの前には誰が立ちはだかることができよう。」とあります。妬みは、焼き尽くす火のようです。

 

 箴言6:34,35では、「嫉妬が、その夫を激しく憤らせて、夫が復讐するとき、彼は容赦しないからだ。彼はどんな償いも受け付けず、多くの贈り物をしても、彼は和らがない。」とあります。妬みや嫉妬の力は、まさに地獄のようです。

 

 天から追放された天使長は、輝きを失い、嫉妬の悪魔と変わり果てたのです。妬みは、自分自身を焼き焦がすのです。

 

 悪魔は永遠に悪魔となりました。もう天使長に甦ることはありません。彼のうちに芽生えた嫉妬が、天使の心を焼き尽くしました。天使長ルシファーは、自ら天使長の栄誉を投げ捨てて、永遠に御子に敵対する悪魔になったのです。自らの固い意志で天から落ちました。天使長は、神が御子に与えた主権を憎み、神の主権に敵対したのです。自分自身の輝きよりも、御子を憎むことに心が捕らわれました。嫉妬の力です。

 

 神は嫉妬に燃えた悪魔に相応しい、永遠の火の池を彼のために用意されました。神(御子)のようになろうとした悪魔に主権が与えられたのは、天の御国ではなく、永遠に燃え盛る死の国でした。

 

 悪魔に悔い改めの心は微塵もありません。悪魔の奴隷どもも同様です。

 

 蛇(悪魔)の言葉に従った人(アダムとエバとその子孫)は、悪魔の奴隷となりました。死の国に主権が与えられる悪魔に支配されます。

 

 使徒の働き28:26-27で、預言者イザヤの言葉が書かれています。

 「この民のところに行って、告げよ。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。

 この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、その目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って、立ち返り、わたしに癒されることのないためである。」

 

 なんと、神御自身によって、民が目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることもできないようにされている、と言うのです。それは、立ち返ることも癒されることもないようにするためである、と言っておられます。

 

 申命記11:26で、イスラエルの民の前に、祝福と呪いを置くことがモーセによって語られています。

 「見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福と呪いを置く。もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、呪いを与える。」

 

 神の御前には祝福だけではなく、呪いも置かれているのです。神に忠実に仕えたルシファーの反逆の呪いは、永遠の火の池です。エデンの園で祝福されていたアダムが、主の命令に聞き従わず、神の命じる道から外れ、偽りの神である悪魔の言葉に従ったために、永遠のいのちは失われ、悪魔と同じ死の国に入る者となりました。

 

 神の契約が与えられた特別な神の民であるイスラエルも、神に聞き従わないならば、呪いを受けるのです。

 

 イエス・キリストを信じて永遠のいのちを受けたと思っているキリストの民もまた、神の霊に聞き従わず、他の霊に従うならば、神の呪いを受けるのです。

 

 罪の呪いは、悔い改めることが出来ない、ということです。悔い改めて罪の呪いが癒されることがないようにされます。本当に恐ろしいことです。

 

 悔い改めとは、神の恵みです。罪が自覚できるのは、神の憐れみによるのです。