ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

死と裁きは定められていた

 

 へブル書9:27には、「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と書かれています。

 

 大天使ルシファーが天から追放されて、闇が現れました。全き光の世界には存在しなかった闇です。悪魔の存在は、神の御国の外に置かれました。

 

 光の世界には存在しなかった「裁き」という新しい法が設けられたのです。光は、神のご意思によって存在しています。永遠の昔からある光は、神の御思いで保たれていました。神の秩序を乱すものは存在していませんでした。愛と平安と喜びに満ちており、完全な調和がありました。神の義と神の聖と神の愛は、完全でした。

 

 しかし、天から落ちる大天使が現れたのです。ルシファーの不義は、完全なる天に対抗しました。天使長の不義は、彼のもとにいる天使たちをも引き込みました。主は、自分の領域を守らず、自分のおるべきところを捨てた御使いたちを、大いなる日の裁きのために、永遠の束縛をもって、暗闇の下に閉じ込められました。

 

 裁きは、天に逆らった御使いたちのために設けられたのです。天地創造の前に定まっていました。人が造られる前から決まっていたのです。

 

 人が造られると、悪魔は人を惑わしました。蛇に騙された人は、神の命令に背き、その結果、人もまた、エデンの園から追放されました。

 

 天地創造の前、神のもとで仕えていた大天使は、神のご性質をよく知っていました。義なる神は、決して、御自身の名で印した事柄を、御自身によってさえも取り消すことが出来ません。神の御名の権威は絶対です。また、主の天秤とはかりは正しいのです。同じ一つのはかりではかられます。立場があるものを優位にしたり、相手によってはかりを変えることはされません。

 

 アダムが造られたとき、天に大きな喜びがあったのを、悪魔は知っていました。神のひとり子のために造られた、「愛」だったのです。御子が人を愛していることも知っていました。人は、仕える天使とは異なる、特別なものだったのです。御子の愛によって造られていました。

 

 御使いのために造られた暗闇と裁き。御子は、不従順な人をも裁かなくてはなりません。御使いは裁いて、人は裁かないという不公平なことは出来ないのです。神のはかりは一つです。もし、人を救うことを計画されるならば、御使いにもその恵みが及ぶはずです。

 

 御使いの裁きは、御子に敵対することです。天に主権は二つも要りません。天の住人は、御子の主権に服するものでなければなりません。御子が、天の支配者であり、主権者なのです。御父は御子を愛しており、万物を御子の手に渡されるからです。

 

 神の御子、子羊イエスは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身を生贄として罪を取り除くために、来られたのです。キリストは、多くの人の罪を負うために一度、ご自身を献げられました。

 

 イエス・キリストを、神が天から遣わされた救い主、神の御子キリストであると信じる者は、キリストの御名によって、天に集められます。しかし、神の恵みを放縦に変えて神の子羊イエスを否定する者、無節操な者たちの迷いに誘い込まれて、天と地の唯一の支配者であり、主であるイエス・キリストを否定する者は、悪魔と同じ裁きを受けるのです。

 

 人に用意された救いは、血肉のイスラエルの救いをもって知ることが出来ます。神は、エジプトの奴隷であったユダヤ民族に、指導者モーセを遣わして、民をエジプトの地から救い出されました。その次に、信じない人々を滅ぼされたのです。

 

 エジプトから出て来て紅海を渡ると、イスラエルを追って来たエジプトの王も騎兵も軍勢も、海に投げ出され、水が彼らを覆いました。こうして、主はその日イスラエルをエジプトの手から救われたのです。イスラエルは海辺に死んでいるエジプト人を見ました。イスラエルは主がエジプトに行なわれた大いなる御力を見たので、民は主を恐れ、主とそのしもべモーセを信じました。

 

 しかし、荒野でモーセにつぶやく不信仰で不従順な者らを神が打たれたので、皆倒れて死にました。

 

 神は、イエス・キリストの民を世から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされます。神は、神の御子イエスを信じない不敬虔な者たちの世から、イエス・キリストにより頼む忠実な人々を救い出されるのです。

 

 死と裁きは、世の初めから定められていました。しかし、天から来られた救い主イエス・キリストを信じる者、天においても地においても唯一の支配者であり主であるイエス・キリストのことばに従う者たちには、死も裁きも、何の力もありません。

 

 神がエジプトの地を行き巡り、エジプトの地のすべての初子を打つ時、一歳の羊の血の塗られたイスラエルの家々は、羊の血のしるしを見て、過ぎ越されました。神は、羊の血によって、エジプトとイスラエルを区別されたのです。それで、イスラエルは、この過ぎ越しを記念して、過ぎ越しの祭りを祝います。

 

 世の終わりにも、同様のことが起こります。神が全地を行き巡り、この世に災いを下される時、イエス・キリストの贖いの血のしるしを見て、裁きを過ぎ越されます。

 

 死と裁きは定められています。しかし、キリストにある者は、裁きにあうことがありません。神の子羊イエスが、身代わって裁かれてくださったので、すでに処罰されており、死刑の判決が下されることはないのです。

 

 悪魔も悪霊も人間も裁かれます。そして、罪に定められ、永遠の火の池に入れられるのです。悪魔も人間も同じはかりによって裁かれます。しかし、神の子羊イエスにおいて裁きが完了している人の子たちは、キリストの贖いの血によって、罪が赦されて義とされており、罪に定められることはありません。

 

 神の裁きが過ぎ越された人の子らは、神の御国に集められ、永遠の愛と平安と喜びと楽しみを味わい、神の子羊キリストの贖いを永遠に褒め讃えるのです。