ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

取税人や遊女たちが先に入る

 

 イエスは、祭司長や民の長老たちに言われた。

 「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入っているのです。というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持ってきたのに、彼を信じなかった。しかし、取税人や遊女たちは彼を信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、彼を信じなかったからです。」(マタイ21:31,32)

 

 バプテスマのヨハネは、神が預言者たちを通して語っておられたメシア(神の子羊イエス)の訪れを告げる者でした。イスラエルは、メシアを待ち望んでいました。メシアは、神が遣わされた、異邦人をも照らす世の光です。その光がイスラエルに訪れました。人々は、ヨハネの言葉を聞き、主にお会いするために、悔い改めて、水のバプテスマを受けていました。

 

 しかし、神に仕える祭司長や民の長老たちは、ヨハネが神から出た預言者であることを信じませんでした。それで、ヨハネからバプテスマを受けることなく、また、ヨハネが証言したナザレのイエスを、キリストであると認めませんでした。

 

 イエスは、ユダヤ民族が蔑む取税人とともに食事をし、律法の外にいる遊女の罪を赦すと宣言する人でした。律法学者たちは驚きました。神から来られた方ならば、誰よりも律法を重んじ、律法を守らないユダヤ人を裁くべきなのです。イエスは、まるで、律法に対して厳重な取り扱いをして来た祭司長や民の長老たちの権限を考慮していないかのようです。

 

 イエスは、ナザレの片田舎で育った者で、レビ族に属する人ではありません。正規の学びをしたこともありません。イエスが神から出ていることを信じることは出来ませんでした。

 

 メシアは、ダビデの子でユダ族から出ることはわかっていました。ダビデの町ベツレヘムで生まれるはずです。何故、異邦人も住むガリラヤ地方の貧しいナザレ人イエスが、メシアなのでしょうか。

 

 イエスは、中風の人に、「子よ。あなたの罪は赦されました」と言われた時、律法学者は心の中で理屈を言いました。「この人は、何故、あんなことを言うのか。神を汚しているのだ。神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう。」

 

 イエスは彼らの理屈を見抜いて言われました。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、「あなたに言う。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。すると、中風の人は起き上がり、すぐに床を取り上げて、皆の見ている前を出て行った。それで皆の者がすっかり驚いて、「こういうことは、かつて見たことがない」と言って神を崇めたのです。

 

 神は、神に仕える民としてイスラエルを造り、神に仕える部族としてレビ族を立てられました。神はイスラエルを神の御前を歩む正しい者に造られたのに、イスラエルは多くの理屈を探し求めました。

 

 彼らの中では、神は絶対的な方であり、全き聖なる方でした。罪を定め正しい裁きをする方です。イスラエルは、律法と預言者によって神と結ばれていました。神は厳しく恐ろしい方でもありました。律法の下にいる彼らにとって、神は祝福と呪いを持って裁かれる方でした。

 

 しかし、受肉して地に来られた神の御子イエスは、神の愛と憐れみによって来られた、恵みのお方でした。律法を守れない人々の罪の赦しを宣言し、罪人を憐れむお方です。律法を守ることによって、神の義を得ようとするイスラエルには無かった教えです。

 

 神は、人には律法を完全に守ることができない、ということを知っておられました。人は、塵から造られた肉なる者です。肉なる者のために与えられた律法が、人を罪に定めるものであることも知っておられます。彼らに罪の意識を芽生えさせて、神の子羊イエスの罪の贖いの血を受け取らせるためです。

 

 厳格に律法を守ってきたと自負する祭司長や民の長老たちは、自分たちが神に受け入れられる者であると信じてきました。律法の外にいる人々は、呪われた者だと思っていたのです。彼らには、自分たちの罪がわからず、罪を悔いる心もありません。自分たちは正しいと思っていたからです。

 

 イエスは言われます。「わたしは憐れみを好むが生贄は好まない。わたしは犠牲よりも憐れみを好む。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 

 イエスは、罪に定めて裁くことを望んではおられないのです。罪を嘆く罪人を憐れみ、罪を赦すために来られたのです。

 

 正しい人は自分で自分を義としています。彼に、あなたは罪人だと言うならば、怒り噛みついてくるでしょう。彼自身が神となっているのです。正しい人が悔い改めることは容易なことではありません。自分を義とする人のことを、イエスは、偽善者と叱責しておられます。

 

 取税人や遊女たちは、自分たちの罪を知っています。後ろ暗い心を抱えています。イエスは、罪に打ちしおれ、自分は罪人ですと自覚する罪人を招いて、悔い改めさせるために来られたのです。

 

 取税人や遊女たちは、イエスの赦しのことばによって解放されました。彼らは、イエスがメシアであると信じたのです。

 

 厳格に神の教えを守って来たと自負していた祭司長や民の長老たちは、イエスを蔑みました。自分を義とする正しい人には、神が遣わされたイエス・キリストがわからなかったのです。

 

 神の国に入る人は、悔い改めて、罪が赦された喜びと感謝を神に献げる人です。贖いの子羊の血による聖めとイエス・キリストの愛に結ばれた人です。

 

 罪を自覚する人が求めるものは赦しです。赦された人は、赦してくださった神に従順になります。神の愛を知ったからです。神を裁き主として認識しません。憐れみと恵みに満ちた主、愛と赦しの主として、心から神を愛し、喜び賛美するのです。

 

 イスラエルの中で蔑まれていた罪人、取税人や遊女たちの方が、律法に忠実な人々よりも先に神の国に入ります。彼らは、罪を悔い改め、イエス・キリストを信じたからです。

 

 同様に、律法を持たない異邦人の方が、ユダヤ民族よりも先に、神の国に入るのです。イエス・キリストを信じる異邦人信者は、イスラエルの神がイスラエルに遣わされたキリスト、聖書に書かれたメシアを信じたからです。

 

 イスラエルにとっては不思議なことです。しかし、憐れみの神は、罪人を悔い改めさせて、神の国に招かれるのです。