ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

霊と御霊

 

 人は神の息が吹き入れられた霊の存在です。霊は永遠に生きる存在です。いのちの根源である神と繋がるものです。人のうちにある霊は、霊的な存在と交流する目であり耳であり、口です。

 

 肉体の目と耳と口で生きる人には隠されています。肉が霊を覆い、霊の目と耳と口の存在を悟らせないのです。肉眼で見える事柄が現実のこととして、肉体のいのちを生きます。肉体が死ねば、すべては終わり、何も残らないと考えます。

 

 肉体で見えるもの、聞くもの、語るものを重要とします。しかし、突き詰めて行くうちに、肉体には限界があることに気づき、見には見えない別の世界があるのではないかと思い始める人も現れます。求める人に見出されます。

 

 肉と霊は次元が異なるものです。肉の方法で、霊のことは開かれません。霊のことは霊によらなければ、捉えることができないのです。

 

 人類の罪の身代わりとなって、神の子羊イエスが十字架で贖いの血を流されました。この時、人類の肉は死んだのです。イエス・キリストを信じる者は、自分の罪がキリストの十字架で処罰され、キリストの贖いの血によって罪が赦されたことを受け取りました。

 

 肉の罪が赦されたのは、肉が死んだからです。肉の死によって、罪は赦されました。肉が生きている者は、まだ罪の中にいるのです。神の子羊イエスは肉体を裂かれ、十字架で血を流し、死なれました。肉が復活することはありません。肉は死んだのです。復活したのは、霊です。

 

 キリストを信じる者は、キリストのうちにあって、肉に死んだ者です。肉体を持っている間は、肉はまだ生きています。しかし、信仰に於いては肉はすでに処罰されており、呪いを受ける肉はもはや存在しないのです。肉体を脱いだ時、すでに肉は死んでおり、実は霊によって生きていたことを知るのです。

 

 すべての人間のうちに置かれている霊は、霊なるものと繋がっています。単独で存在することはありません。霊に繋がっているから、肉体に命があるのです。霊が抜き取られたら、肉体は死にます。

 

 アダムとエバがエデンの園で善悪を知る知識の木の実を食べた時、神に繋がっていた人の霊は、神に敵対する悪魔の手のうちに入りました。神と繋がっている霊に覆いを掛けて神をわからなくさせ、神と繋がる霊に悪魔の混ぜ物を流し込みました。

 

 霊なる存在の人は、この世の神である悪魔に霊を捕えられています。それで、多くの善良な人々は良い事を求めて悪魔の手のうち深くに入って行きます。彼らは、地に属するもので自分を満たします。満たしても満たしても、飢え渇きます。何かに取り憑かれたように忙しないです。平安がありません。真のものではないからです。

 

 霊は平安を求めています。愛を求めています。安息を求めています。何故ならば、霊の源である神が、愛であり、平安だからです。神が造られたものは、神のものによって満たされた時に、真の安息を味わうのです。

 

 神は、神の子羊イエスを遣わされて、肉を処罰されました。もはや、肉に縛られることはありません。肉は死んだのです。死んだ肉に、神を知る霊を覆うことはできません。神は、肉に変わって、霊を生かす御霊を遣わされました。

 

 御子イエスが霊を殺す肉を破り、聖霊が霊を生かす御霊となられて、地上に遣わされました。肉に死んだ者は、御霊を受ければよいのです。何故ならば、肉によって覆われ悪魔の思いに繋がれていた霊は、死んでいるのです。肉は霊を生かすことはできません。霊を殺すだけです。

 

 御霊が人の霊を甦らせます。御霊は生かす霊なのです。肉に死んでも、霊が甦られなければ、その人の霊は死んだままです。神のことがわかりません。神の国に入ることができません。

 

 キリストを信じても御霊を受けなければ、罪が赦された死人です。神の国は、罪赦された者が入るところではなく、御霊によって死から甦った、永遠のいのちの霊の人々が集められるところです。罪が赦されても、永遠のいのちを得ていなければ、神の国に入ることはできません。

 

 「この方(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」とヨハネ1:12に書いてあります。イエス・キリストを信じた人々は、神の子どもとされる特権を手に入れただけで、神の子どもとなったわけではありません。特権だけで満足してはいけません。その特権は行使しなければなりません。行使して、神の子どもとされるのです。

 

 御霊を受け取った人々は、御霊に教えられ、御霊とともに歩み、神の国に向かうのです。神の国に入るには、案内人で導き手の御霊が必要です。

 

 御霊を持たない肉の死人に、悪魔の高級霊が送られ、また悪魔の餌食となる可能性もあります。肉に死んだ人は、御霊を受けて、生きた霊の人となることが重要です。御霊によって、甦った霊が、神の国に入るのだからです。

 

 神の御霊に導かれる人の霊は、神を知っています。羊飼いの声を知っています。御霊が教えられるからです。御霊によって甦った霊は、御霊を否むことができません。神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。

 

 ローマ8:16には、「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、証してくださいます」とあります。

 

 御霊に導かれる霊は、神の子どもです。神の新しい創造です。そのことは、神の御霊が証してくださいます。