ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

バプテスマのヨハネの死

 

 マラキ書4:5、6に、エリヤの霊の訪れの預言が書かれています。

 「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。

 それは、わたしが来て、呪いでこの地を打ち滅ぼさないためである。」

 

 ルカの福音書1:17には、祭司ザカリヤに語られた御使いの言葉があります。ザカリヤの不妊で高齢の妻エリサベツに、男の子が生まれること、そして、その子の名前をヨハネとつけなさい、と言われています。

 

 「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前触れをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」

 

 神は、ヨハネがエリサベツの胎に宿る前から、エリヤの霊と力を持つ、主の前触れをするバプテスマのヨハネが世に現れることを、御使いを遣わして語っておられました。

 

 彼は、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、イスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせる者です。

 

 バプテスマのヨハネが、イエスに水のバプテスマを授けました。ヨハネは、イエスが水から上がられる時、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、イエスの上に来られるのを目撃しました。

 

 バプテスマのヨハネは、ナザレのイエスこそが、神がイスラエルに遣わされた神の子羊であることを証言しました。

 

 神の子羊は、神の民イスラエルを治める支配者です。神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わる事がないのです。

 

 御霊が留まるのをバプテスマのヨハネに目撃されたイエスこそが、いと高き方の子と呼ばれる方です。バプテスマのヨハネはイスラエルに、ナザレのイエスが世の罪を取り除く神の子羊であり、神がイスラエルに遣わされた神の御子であることを、証しました。バプテスマのヨハネは、生まれる前から、この使命を負って来ているのです。

 

 神はバプテスマのヨハネに、「聖霊がある方の上に下って、その上に留まられるのがあなたに見えたなら、その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。」と語っておられました。

 

 バプテスマのヨハネは、聖霊のバプテスマを授ける権威を持つ、天から来られた方(イエス・キリスト)をイスラエルに証する者でした。

 

 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の子羊」と言うヨハネの言葉を聞いて、バプテスマのヨハネの弟子のふたりは、イエスについて行きました。

 

 バプテスマのヨハネは、弟子たちに、「私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私よりも先におられたからだ。」と言っていました。また、「この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。」と言って、自分の役目を知っていたのです。

 

 神は、バプテスマのヨハネに御霊のしるしを見せ、それによりヨハネは、イスラエルが待ち望んでいたメシア、ダビデの子を知ったのです。イスラエルの民衆は、バプテスマのヨハネの証言によって、ナザレのイエスが神の遣わされたキリストであることを知るのです。バプテスマのヨハネは、ナザレのイエスがキリストであることを証するために、エリヤの霊の権威を与えられていました。

 

 バプテスマのヨハネは言っています。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 

 それなのに、神の子羊イエスを証する務めを神から受けていたヨハネの信仰が揺らぎました。神から与えられた神の人としての権威を、イエスの証のためにではなく、ヘロデ王を糾弾するために使いました。

 

 ヘロデ王が、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤをめとることは不法である、と言い張ったのです。それで、牢に入れられ、挙句の果てに首をはねられて死にました。

 

 バプテスマのヨハネは、自分のあとに来る方、神から来られた神の御子をイスラエルに証言するために、生を受けていました。それなのに、外国人であるヘロデ王の罪を責めることによって、殺されました。

 

 イエスを「見よ、神の子羊。」と証言していたバプテスマのヨハネが、イエスのもとに弟子たちを送って、「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちはほかの方を待つべきでしょうか。」と言わせているのです。

 

 イスラエルにナザレのイエスがキリストであることを証言しなければならないバプテスマのヨハネは、自分の使命を見失っていました。

 

 「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることなく、神の怒りが留まる。」と、ヨハネの福音書3:36にあります。

 

 永遠のいのちを与えるイエスを証する務めを果たさず、神に命じられていない方向に向かったヨハネは、首をはねられて死にました。

 

 神の御霊のしるしを見て、永遠のいのちを与える方(イエス・キリスト)を知らされていながら、永遠のいのちのための働きを全うしませんでした。それで、神は、ヨハネをわからなくさせられました。

 

 本来ならば、ヨハネの弟子たちとともに、イエスを証しなければなりませんでした。イエスの権威の中に入らなければなりません。しかし、バプテスマのヨハネは、自分の群れをイエスに渡しませんでした。自分の権威を持ち続けました。天から与えられた権威が、イエスとヨハネに二分しました。キリストはおひとりなのに、権威は二つに分かれました。

 

 天の権威は、神おひとりです。神が与えた権威が永遠です。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」と言うヨハネの言葉は、空しく地に落ちました。

 

 バプテスマのヨハネは、殉教ではありません。神のことばの外の死です。神に正しく仕えなかったために、神の怒りによるものでした。イエス・キリストの御名のゆえに殺されたならば、殉教ですが、ヨハネの死は、使命の外の死です。ヨハネは、神から絶たれました。

 

 バプテスマのヨハネは、自分の群れにもイエス・キリストに仕えることを教えませんでした。バプテスマのヨハネも、ヨハネの弟子たちも、イエス・キリストを目撃しながら、自分たち自身の道を歩み、永遠に神の道から外れたのです。

 

 バプテスマのヨハネは、神に逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、整えられた民を主イエスのために用意する務めを全うしませんでした。また、バプテスマのヨハネについた者も皆、同じ道を辿るのです。