ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

グローバルな世界

 

 グローバル化する社会において、一部の日本人は、日本民族の意義を見出し始めています。

 

 世界は、あらゆるものが混ざり合って来ました。諸外国の食や文化に触れることで、自国を知るきっかけともなります。客観的に日本や日本人を知ることは、自国や自分自身に興味を持つことに繋がります。自分を知ることで、自分を生んだ日本への感謝と尊重、慕わしさが芽生えます。

 

 長い間、日本人は日本人であることを恥ずかしく思い、卑下するような傾向がありました。日本に対する誇りを持っていませんでした。他国語が話せないという劣等感もあったのでしょう。

 

 島国で育った日本人にとって、大陸は憧れであり、遠い異国の地なのです。以前、日本の中で、外国人を見かけることは滅多にありませんでした。

 

 数年前のことです。ある人が、外国人が日本を訪れた時、どこへ行っても日本人しかいないのを見て驚いた、と言うのです。それを聞いた時、私はすかさず、「日本だから、日本人しかいないのは当たり前じゃない」と言って、笑いました。話したその人は黙っていました。

 

 いま思えば、笑った私の方が世界を知らなかったと呆れます。大陸続きの国々は、色んな民族が入り混じっています。また、アメリカは良い例です。肌の白い人ばかりではありません。アジア系の人が、「私はアメリカ人」と言います。肌の黒い人もアメリカ人です。日本では考えられないことです。

 

 一つの民族しかいない、と言う方が世界では珍しいのかも知れません。戦前に混血の人はあまりいなかったと思います。

 

 世界が混じり合い、国を超え、民族を超え、言語を超え、一つになろうとする動きがあります。それは、随分前から、世界に仕組まれていたようです。世界最初の権力者ニムロデが人々の心を掴み、神に敵対して、バベルの塔を建て始めた時代に戻りつつあります。

 

 神が言語を通じなくさせて、世界に散らされた人間は、思い思いに生活していました。神を否定する彼らは神の力によらず、人間の力を駆使して世界を動かすことに、人間の勝利の喜びを感じて来ました。彼らには、神は必要ないのです。彼らは、彼らに知恵を授ける悪魔を礼拝しました。

 

 彼らには、罪を認め、罪を悔い改める心がありません。自分が高くなること、名を上げることを切望します。世界の富を集め、国々や人間どもを自分たちの思い通りに動かすことを喜びます。

 

 彼らは、悪魔の奴隷です。そして、この世は、悪魔の奴隷に支配された、罪人の世界です。罪人は、天地万物を造られた神に対して罪ある者です。神は、目には見えません。目に見えないものに、罪を犯すとはどういう意味なのでしょうか。

 

 果たして、神は存在しているのでしょうか。存在しないものを恐れ、怯えるなんて、愚かなことです。彼らには、神が分かりません。目に見えない悪魔は信じます。何故ならば、悪魔は、自分を豊かにし、高く上げてくれるものだからです。彼らは、この世のものを求めています。この世の君である悪魔は、それを叶えてくれます。だから、悪魔の存在を信じるのです。彼らに、力を与えてくれるのは、悪魔だからです。

 

 罪人の世界で、神の聖徒らは、罪人に振り回されます。この世の卑しい所に追いやられ、地を這うような生き方を強いてくるかも知れません。辛苦をなめさせられます。

 

 世の人々は、良い牧場で草を食べます。澄んだ水を飲んで、この世を謳歌します。神の聖徒らは、世の人々が踏みつけた草を食べ、彼らの足が濁した水を飲むのです。神の聖徒らは、世の人々の奴隷のように粗末に扱われます。

 

 しかし、それは、この世があるうちのことです。卑しめられ、踏みつけられた神の聖徒らには、永遠の宝があるのです。この世の人々の富は朽ちます。しかし、主を畏れ、正しいことを求めた神の聖徒らの冠は、永遠に輝くのです。

 

 かつて、この世のひな型としてのエジプトの奴隷であった、イスラエルの民は、奴隷の家エジプトから救い出されました。そして、神が彼らに用意された約束の地(現イスラエル)へと導き入れられました。神の聖徒らも、この世の奴隷のように扱われていても、時が来れば、主が、この世から救い出され、天に引き上げてくださるのです。

 

 世界がグローバル化するように、聖徒らの霊的世界は、御霊によってひとつに集められます。世の人の霊的世界は、悪魔によって支配されます。しかし、キリストの贖いの血を受けた義人は、滅びゆく悪魔の仲間でいることは出来ません。御霊によって、聖なるものを求め、永遠のものを慕い求めるのです。

 

 世では、世界が一つに取りまとめられて行きます。悪魔の権威を持つ者が支配者となります。

 

 国が国に敵対し、民族が民族に敵対するのは、グローバル化に抵抗する足掻きなのかも知れません。この中で、世の流れに飲み込まれずに、真理を求め、神に立ち返る人々も起こるのでしょう。

 

 神の国の子らは、御霊によって造り変えられ、キリストに似た者とされます。様々な者が、一つの括りとされるのではなく、御霊によって生まれ新しい人に創造されて、皆がひとりの人キリストのようになるのです。