ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

いのちの木への道は開かれている

 

 「こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」と、創世記3:24にあります。

 

 蛇の語る悪魔の言葉を信じ、神のことばに逆らって、禁断の「善悪を知る知識の木の実」を食べたアダムとエバを見て、神である主は仰せられました。

 「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 

 そこで、神は、人をエデンの園から追い出され、いのちの木への道を閉ざされました。

 

 被造物のいのちの輝きと平和に満ちたエデンの園には、永遠に生きるいのちの実を実らす「いのちの木」と、死が宣告される善悪を知る知識の実を実らす「善悪を知る知識の木」がありました。

 

 死のないエデンの園に、その実を取って食べるならば必ず死ぬという、死に至らせる実を実らす木が置かれていました。

 

 エデンの園は、完全な天の御国ではありませんでした。

 第三の天は、神の御座がある全き光の領域です。暗いところは、一つもありません。

 第二の天は、第三の天から追放された堕天使の存在する、闇の領域です。神は、闇の中に天体を造られました。宇宙は神の被造物ですが、光の外にある不完全なものです。

 

 神は、この闇に、一つの光を造られました。宇宙に地球を造られたのです。神は、やがて闇を滅ぼすことを計画しておられました。

 

 悪魔がまだ、大天使として神に仕えていた頃の、全き光を回復されます。ルシファーが神に仕えていた頃は、闇は創造されていませんでした。光しか無かったのです。大天使ルシファーの反逆により、闇の領域を造られた神は、神に背く天使たちを第三の天から追放されました。

 

 宇宙は、堕天使たちの住まいとなりました。闇の中で、悪魔から身を避け、神を慕う堕天使たちも起こりました。神は、悔いる堕天使の救いのために、地球を造られました。

 

 彼らを管理するために造られたのが、神のひとり子と一つ心となる人です。被造物は神のことばによって造られ、人は神の息を吹き入れられ、神のことばとともにある者として造られました。神は、人を、エデンの園に置かれました。

 

 エデンの園には、いのちの木と、死に至らせる木が置かれていました。これは、天から追放した堕天使のための試験でした。いのちの木の実を選ぶか、善悪の木の実を選ぶかが課題でした。

 

 しかし、堕天使の試験の前に、管理人自身が、食べてはならない試験の実を食べてしまい、神の計画は頓挫しました。救いのために造った地球に、いのちの道が失われました。それで、エデンの園で管理人だった人も、試験を受ける側となり、生きては死に、生まれては死ぬを繰り返すことになったのです。

 

 人が死んでしまいました。堕天使は、霊的存在です。しかし、人は、塵から造った肉体を持つ存在です。人の罪を贖うためには、肉体の贖いをしなければなりません。肉体の贖いのためには、身代わりとなる肉体が必要です。

 

 神は、管理人である人の罪を贖うために、神の子羊イエスを用意されました。神のひとり子に肉体を造り、「人の子」として、地球に送られました。神は、ひとり子を地に遣わすために、長い時をかけて神の民イスラエルを造り、人の子イエスをダビデ王の系図の子どもとして女の胎に入れられました。

 

 死の実を食べた人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた神が、人を生かすために、神の子羊イエスの肉を破って、いのちの木への道を開かれたのです。

 

 人がエデンの園を追放されて以来、不老不死を求めても、いのちの木に辿れないようにされていました。いのちの木は神に守られており、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれたので、そこを通るならば、誰もが肉体が破れて死ぬようにされたのです。誰もいのちの木に辿り着くことが出来ません。

 

 神は、罪なき神の子羊イエスをいのちの木への道に導かれました。神の子羊イエスは、肉を裂かれ輪を描いて回る炎の剣を潜られました。十字架で流された神の子羊イエスの血が固く閉ざしたケルビムの扉を開き、肉体を持つ人の子イエスが、いのちの木の実を食べる道を開かれたのです。

 

 神の子羊イエスの血は、いのちの木の実を食べる資格を人に与えます。イエスを主と告白する者に、子羊イエスの血が記されます。しかし、いのちの木に至るためには、輪を描いて回る炎の剣を潜らなければなりません。彼らは、いのちの木の実を食べるために、肉が砕かれ、肉に死ぬ体験をするのです。

 

 ケルビムは、子羊イエスの血のしるしを見て、彼らが通るのを許します。しかし、肉が破られる体験をするのは、その人自身です。彼らは肉に死ぬ体験をします。それで、パウロの告白をするのです。

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」

 

 神の御子イエスは、人を永遠に生きる者とするために、いのちの木への道を開かれました。人は、神の子羊イエスの血を受けて、主イエス・キリストが開かれたいのちの道を歩めばよいのです。

 

 いのちの道は、肉を破り、自我を砕いて、世の苦しみとは異なる苦悩を潜りますが、希望のある苦しみです。永遠のいのちの冠を受けるための苦しみです。肉体を持つ人を、御霊によって新しく生まれさせ、霊によって生きる者に創造する、信仰の道です。

 

 主イエスが、人を愛し、人と同じようになられて、ご自分の肉を破り贖いの血を流して、人のために、いのちの木への道を開かれました。