ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

誇る者は主にあって誇れ

 

 世では、UFOを見たとか、宇宙人を見たとか、不思議な話に耳を傾けます。人間の理解を超えた霊的なことに、心が惹かれます。否定する人でも、そのことに向き合って討論します。

 

 しかし、キリストの十字架や復活については、全く興味を示しません。関心がないのです。キリストと聞いただけで、耳を閉ざします。真っ向から否定します。そんな話は聞きたくないと、そっぽを向きます。

 

 イエス・キリストが人類の救世主なのに、宗教として捉えているからです。信じる者たちの神、キリスト信者にとっての神であって、自分には関係ないと思うのです。

 

 キリストを、キリスト教の創始者として捉えられているのでしょう。しかし、キリストは、人々が神と呼んでいる創造主のひとり子なのです。人が信じても信じなくても、それが真実です、と言っても、耳を閉ざす人々には届きません。

 

 この世の知者や、権力者や、身分の高い人たちは、世のことで忙しくしています。神の声が届きません。彼らには、この世の知恵があります。知識があります。この世の働きがあります。目標に向かって、あらゆる情報にアンテナを張ります。しかし、霊的なことには無頓着です。

 

 人は、生まれた時から原罪ある者です。それで、霊が深い眠りについています。思考は活発に働くのに、霊は全く開かれていません。それで、権力者たちの中には、縁起をかつぐ人が多いようです。

 

 繁栄のため、自分を高くするために、神仏により頼みます。そのために、お金を使うことを気にしません。彼らは、霊が閉ざされているので、霊の開かれたものを求め、それを頼みとします。

 

 サウル王は、霊媒師にサムエルの霊を呼び出させ、伺いを立てました。サウルは主に伺いましたが、主が夢によっても、預言者によっても答えてくださらなかったからです。

 

 これは、正しい他力本願ではありません。サウル王は、自分の外に助けを求めたからです。人には、霊があります。

 

 コリントⅠ 2:11に、このように書かれています。

 「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、誰が知っているのでしょう。同じように、神の御心のことは、神の御霊のほかには誰も知りません。」

 

 人の恐れも、不安も、心配も、悩みも、その人自身のうちにある霊のほかに、誰もわからないのです。霊は、神と繋がる部分です。本願は、その人のうちにあるのです。本願を、自分の外に求めることは、エバが、蛇の言葉に聞いたのと同じです。

 

 創造主である神が、その人のことを御存じです。ひとりひとり、神の用意された人生の設計図を持って、生まれて来ているのです。その予定された人生に必要なものも備わって、生まれています。ある人は、それを神が与えられた使命だと捉えます。

 

 ひとりひとり、神の計画を担って生まれて来た、というのです。その働きのために必要な能力や環境も備えられています。人の霊は、それを知っています。人の霊のうちに、神の設計図が書かれており、素直な心の者は、知らず知らずに、その道を辿っています。思いが与えられ、一歩進むと環境が開かれ、目の前のことを心をこめて行なっているうちに、自分の意思というよりも、導かれたかのように行き着くと、神が自分に割り与えられた設計図通りの道にいることに気づくのです。

 

 そこに入ると、過去の歩みに見え隠れしていたのが神の道であったこと、自分の人生の経験すべてがその目的とともにあったこと、また、失敗もすべて、この道に向かわせるために益となっていたことに気づくのです。

 

 神の御旨は、その人の霊のうちにあるのです。他の人に伺うのではありません。他力本願とは、自分の外にいる、他の人を頼みとすることではなく、自分のうちにある神の本願、自分が生きるべき本来の道、自分のあるべき姿を、自分自身の霊に尋ねるのです。

 

 神の御心のことは、神の御霊のほかには誰も知りません。御霊を受けていない人は、まず、キリストの御霊を受けなければなりません。イエス・キリストが私の罪を赦す贖いの血を流されたことと、神の御子であることを信じて御子イエスを自分の主とする者に、御霊が与えられることは、死から復活されたキリストの約束です。誰でも、御霊を受けることが出来ます。求める者には与えられるのです。

 

 御霊が住まわれるならば、御霊が教えてくださいます。私たちの霊は、御霊のものに平安を、御霊でないものに心がざわめくのを感じ取ります。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれます。御霊を受け、御霊に聞く人は、人の知恵に教えられた言葉ではなく、御霊に教えられたことばを大切にします。

 

 御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分は誰によってもわきまえられません。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。

 

 霊の塞がれた人間は、人の知恵を求めます。彼らにとって、目に見える繁栄が勝ち組であって、この世の知識と知恵とお金こそが自分を成功させてくれるものだと信じているからです。彼らは、それらを自分の外から集め、自分の霊をなおざりにしています。自分の霊はお金を与えるものではないからです。

 

 しかし、本当の成功とは、天と地が滅びた後も、魂と霊が生き続けることです。肉体も知識も知恵もお金も滅びます。永遠に残るものは、神を慕う魂と、神の御霊が伴われる霊です。彼らは、真の財産を知らないのです。

 

 神は知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを空しくされます。

 「神は、知恵ある者を辱めるために、この世の愚かな者を選び、強い者を辱めるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものを無い者のようにするため、無に等しい者を選ばれたのです。

 これは、神の御前で誰をも誇らせないためです。」(コリントⅠ 1:27-29)