ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

人間のうちにある原罪

 

  「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。

 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネの福音書1:1ー3)

 

 神であることばが、受肉されたキリストです。キリストは、人の子イエスとしてイスラエルに生まれる以前から、また、天地万物が造られる前から神とともにおられた神の御子です。

 

 イエスは、ユダヤ人たちに言われました。

 「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。」

 

 そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」

 

 イエスは彼らに言われた。

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 

 ユダヤ人たちは、目の前の人の姿のイエスを見ていました。イエスは、大工ヨセフの息子で、ナザレの人です。ナザレの地は、割礼のない異邦人も住んでいるところです。律法に厳格なユダヤ人たちは、聖なる神の民として、契約のない異邦人と一線を引いた生活をしていました。彼らにとって、ナザレの地は、忌まわしい地です。ナザレ人を聖なる民の仲間と考えることは耐え難いことでした。同じ神の民として認め難い、価値が低いと考えられるユダヤ人でした。ユダヤ人には、ナザレ人に対して蔑みしかありません。

 

 蔑みの対象のナザレ人から、何の良いものが出るでしょう。イエスが神のことばを語っても、イスラエルの誇りを持つユダヤ人たちには受け入れられません。

 

 そのイエスが、ユダヤ人の父祖アブラハムが生まれる前からいた、と言うではありませんか。とんだほら吹き野郎です。しかも、アブラハムがイエスの日を見ることを思って大いに喜んだと言うではありませんか。イエスは、一体何者でしょう。

 

 アブラハムは、二千年も前の人です。神から契約をいただいた最初の人です。アブラハムが生まれる前?神の契約が結ばれる前から、イエスがいたって、どういうことでしょう。

 

 ユダヤ人たちは、目の前の肉体を持つイエスを見ていました。しかし、父祖アブラハムは、霊において、自分の子イサクの先に生まれるイエスを知っていたのです。肉眼で見ることができる時代が来ることを思って、喜んでいたのです。アブラハムが「主」と呼んでいた方が、「メシア」として契約の子ら(アブラハムの子孫)のうちに現れることを知っていたのです。

 

 肉体をもつ「人の子」としてイスラエルに遣わされた神の子羊イエスは、神のひとり子であり、永遠の昔からおられる方です。神とともにアダムを造られた神のことばであり、神の御子です。アブラハムが生まれる前どころか、アダムが造られる前から、また、天地万物が造られる前、ルシファーが悪魔になる前からおられる方なのです。

 

 エデンの園で、エバを惑わした蛇に、「おまえの頭を踏み砕く」と神が仰せられた女の子孫は、イエス・キリストのことです。神は、悪魔に捕らえられた人を悪魔の呪いを砕いて救い出すメシア、罪の呪いを打ち砕き死から救い出す神の子羊キリストを地上に遣わされることを、創世の初め、エデンの園で仰せられました。

 

 神は、御自身とともにおられたひとり子を、地に遣わす計画を決められたのです。すでに存在していたアダムの主、アブラハムの主、モーセの主が、人となられたイエス・キリストです。彼らは、人となられる前の主(神の御子)を知っていたのです。

 

 最初の人アダムの置かれたエデンの園で、人が守るべき一つのことがありました。園の中央にある木の実を食べてはならない、ということです。それ以外の木の実は、どの木から取って食べても良かったのです。

 

 この命令は、神と人との正しい秩序を保つものでした。人は神に似たものとして造られましたが、神ではありません。神と神のことばに従うのが、人のあるべき姿でした。神とともに人を造られた神の御子でさえ、神に完全に従っておられました。神のことば(神の御子)は、神とひとつです。神のうちにあり、神とともにありました。そのように、人は神のことばと調和を持つ者であることを要求されました。

 

 蛇は、神のことばをひっくり返すようなことを言いました。神が「必ず死ぬ」と仰せられたことを、「決して死なない」と言い換えました。神のことばしか聞いていなかったエバにとって、予想だにしなかったことです。しかも、神に禁じられた木の実は、神のように賢くすると言うではありませんか。

 

 神のように知的能力のあるものとして造られた人は、神のように賢くなると言うことに興味を持ちました。しかも、それを食べても死ぬことがないのです。神のように賢くなれて、しかも、神に罰せられることがないのならば、食べてはならない理由が見つかりません。

 

 エバとアダムは、自分の中で理屈を付けました。神の知恵と自分自身の知恵をはかりにかけて、神のことばよりも、蛇の言葉とエバの言葉が自分に良いように判断したのです。そして、自分を選び、蛇の言葉通りに、神のように賢くすると言う木の実を食べ、神の宣告通りに死の呪いを受け取ったのです。

 

 御子は、自分で判断せずに、いつも父に忠実でした。父の願いが御子の願いであり、父の御思いが御子の思いです。御子には自分というものがありません。父なる神しかいません。父と御子はひとつです。御子は父の中にありました。「わたしはある」という神の中にあったのです。

 

 御子は個として存在していません。神の良いことが御子の良いことです。御子のうちには理屈がありません。父の御思いから外れることがありません。御子は、神そのものでした。

 

 人は、自分に良いと思われることを選び、罪人となりました。神のことばから外れた人の最初の行動は、神から隠れることでした。神のことばを守らなかったことを後ろめたく思ったからです。隠すこと、不義を見えなくすること、嘘、偽り、闇が人の心を支配しました。

 

 神から責められると、エバのせいにしました。エバは、蛇のせいにしました。正しくは、エバを造られた神のせいにしました。また、蛇を造られた神のせいにしました。自分がしたことに理屈をつけて、自分の不義を隠し自分を庇いました。人は自分の罪を認めたくないのです。アダムもエバも悔い改める力がありませんでした。この原罪を人類は受け継いでいるのです。

 

 「神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を探し求めた。」(伝道者の書7:29)神の子羊イエスの贖いを信じる信仰が人を義とし、人の理屈が人を神から永遠に引き離すのです。