ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

善人と悪人と義人

 

 アダムとエバが禁断の善悪を知る知識の木の実を食べたことで、人間の歴史が始まりました。

 

 神の息が吹き入れられて生きる者となったアダムは、神のことば(神のひとり子)とともにありました。アダムの知性は、神を仰ぐことでした。彼のうちには、神との調和と平安と喜びがありました。

 

 神の御子が神とひとつであったので、神のことばと一つであるアダムも神のうちにあったのです。

 

 「決して食べてはいけない。取って食べるとき、必ず死ぬ。」との神のことばを破って、善悪を知る知識の木の実を食べたときに、アダムは神のことばの権威の外に出ました。もはや、神の御子と一つではなくなったのです。

 

 神は、永遠に生きるいのちの木からアダムを遠ざけました。アダムには、死の道しかありません。死に向かって歩み、死に飲み込まれて行くだけです。

 

 神のように賢くなると蛇の言う、善悪を知る知識の木の実を食べたとき、アダムの意識は自分に向かいました。御子に結ばれていた生きる人は、御子から外れて死ぬ者となったのです。アダムの思いは創造主ではなく、被造物に向けられました。

 

 神を失った人は、自分を人生の主人とします。善悪を自分で判断するのです。エデンの園には、善も悪もありません。神が主であり、すべてが神の覆いの中にあったのです。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べた人が、動物と違うところは、自分で善悪を判断するということです。生き物は、人の判断の下に置かれました。

 

 神の判断は、すべてのものの調和とすべてのものを生かすことです。しかし、人の判断には、自分を中心とする独善的なものが入ります。自分を生かすために、他のものを犠牲にします。

 

 人の善悪には調和がありません。一つを生かせば、他のものを消すこともあります。一人一人が主人であって、折り合いをつけることが難しいのです。

 

 ある人が善と思うことであっても、別の人には善と思えないことがあります。ある人が悪と思うことであっても、別の人には悪と思えないこともあります。はかりが、一人一人違うのです。善悪を知る知識の木の実は、その人の良いと思うことに照らし合わせる性質を与えます。基準がありません。それで、規則が必要になって来ます。

 

 この世の人々は皆、善悪を知る知識の木の実の性質を受け継いでいます。基準の高い人もあり、基準の低い人もいます。基準の厳しい国もあり、基準のゆるい国もあります。

 

 善に傾く人もいれば、悪に傾く人もいます。善悪の基準に無頓着な人もいます。この世では、善に傾く人を敬い、悪に傾く人を蔑む傾向があります。

 

 善を重んじる道徳的な人は、善良な人です。善行を積む生き方を尊び、ある人は、宗教に辿り着き、いのちの在り方を探求します。仏教は、その代表的な教えです。

 

 神は、この世の善人を求めておられるのでしょうか。善を求めても、いのちの木に辿り着くことは出来ません。いのちの木は、神に守られています。善人であってもいのちの木に辿り着くことはないのです。

 

 神は、修行を積んだ善良な人を受け入れられるのでしょうか。彼らは、人の目には善人であっても、善悪を知る知識の木の実を食べた罪人なのです。罪人が善行を積んでも、罪が赦されるわけではありません。罪が赦されるためには、償いが必要です。善行によって罪が取り除かれるわけではないのです。

 

 罪を知れば知るほど、救いから遠く離れます。善を求めれば求めるほど、自分のうちに善がないことを知るのです。自分の惨めさを知るだけです。

 

 神は、善人を求めてはおられません。人は自分が正しいと思うと、他人を裁きます。自分を裁くはかりは軽く、他人を裁くはかりは重いのです。善を求めながら、自分の義を立てようとします。神は、それを「偽善者」といって責められます。

 

 神の目からみれば、偽善者よりも、悪人の方が救いに近いのです。悪人は、自分の罪を知っています。自分が正しいとは思っていません。偽善者は、「自分には罪は無い」と言って、嘘を隠します。悪人は、「自分は悪人だ。それがどうした」と開き直ります。しかし、愛に出会った時、罪を認めている悪人の方が、正直なのです。

 

 イエスは言っておられます。

 「わたしは憐れみを好むが、生贄は好まない。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 

 人が自分の善悪の判断で裁くことも、神に受け入れられるために生贄を献げることも、神は望んでおられません。神の子羊イエスが遣わされたのは、自分は正しいと思っている善人を救うためではなく、自分の罪深さに打ちのめされ、悩み苦しんでいる罪人を救うために来られたのです。

 

 イエスは、罪人を神の国に招くために来られたのです。正しい人にとって、イエスの十字架の死は意味のないものです。彼らは、イエス無しで自分たちを善人に数え、満足しているのです。

 

 罪人は自分の弱さを知り、イエスの十字架の救いの重みを知るのです。イエスが、自分の罪の身代わりに死んで下さったこと、キリストの贖いの血によって罪が赦されたことの恵みがわかるのです。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べた正しい人は、自分で自分の救いをつくり出します。彼ら自身が神の座に着き、自分を正しいとするのです。

 

 善悪を知る知識の木の実を食べた罪人は、神が用意された神の子羊イエスによる救いを信じ、神にへりくだります。神を神とする彼らを、神は義とされます。

 

 神が求めておられるのは、義人です。善人ではありません。神の御子イエス・キリストを主とする罪人こそ、神の御国に招き入れられる義人です。

 

 神の国は、神のことばの中にある義人たちの国です。