「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(ペテロⅠ 2:6)
神がエルサレムを選ばれました。地球上で、神が住まわれる神の都として、エルサレムが選ばれました。アブラハムが選んだのではありません。ダビデ王が選んだのでもありません。ユダヤ民族が選んだのでもありません。イスラエルが選んだのでもありません。神御自身が、エルサレムを御自分の御住まいとして選ばれました。
神の御目は、いつもエルサレムをご覧になっています。また、神の御思いは、エルサレムから、他に移ることがありません。神の民としてイスラエルを選ばれた神は、神の御住まいであるエルサレムをユダヤ民族の手に任されました。
イスラエルは、世界に置かれた神の祭司の国民です。神に執り成すために、祭司の務めを命じられた国民です。しかし、律法を守ることを信仰とする彼らは、律法に目が塞がれて、生ける神を捉えることができずにいます。
律法に目が塞がれて、霊なる神の生きたことばを受けることができなくなり、信仰の思いが暗くなっています。彼らの先祖は、神のことばを聞いていました。一つ一つの決め事を神に伺い、神から受けていたのです。生きた神との会話がありました。
先祖が神のことばを受けて、待ち望んで来たキリストがイスラエルの間を歩まれたのに、彼らは、ナザレのイエスを神の御子キリストであることを認めませんでした。キリスト・イエスを拒絶することで、彼らの神を拒絶したのです。預言書を信じながら、預言者に語られた神を信じなかったのです。
イエス・キリストと聖書の神が一体であることを彼らは知りませんでした。イエスの語る「父」が、アブラハム、イサク、ヤコブの神であることを知りませんでした。アブラハムのように霊とまことをもって神を礼拝していないので、霊のことがわからなかったのです。
彼らの信仰の父は、実質アブラハムからモーセに移行しました。律法を与えたモーセからイスラエル民族が始まりました。
アブラハムの子どもには、アラブ人の先祖のイシュマエルもいます。イスラエルだけの父ではないのです。しかし、律法を与えたモーセは、イスラエルを奴隷の家エジプトから救い出してくれた指導者であり、ヤコブの子孫イスラエルを神の民としたイスラエルの信仰の父なのです。
イスラエルは神の民と言いつつ律法の民になっています。
この律法の民のところに神の子羊イエスが、神に遣わされて来ました。イエスは、律法の民の中から現れた、霊とまことの信仰者でした。律法の民は、霊なる神が霊とまことによって礼拝されるお方であることを、見失っていました。
律法は神に受け入れられるためであって、救いを受けるものではありません。神は、善悪の知識を知る木の実を食べた人類の中で神の民として選んだイスラエルに、悪魔が与えるこの世の基準ではなく、神の基準を教えられたのです。
神が、この世のものではないことを知るためです。この世の善が善ではなく、神のことば(律法)を守ることが神に受け入れられる善であること、この世の善が義とされるのではなく、神のことばを守ることが神に受け入れられる義であることを彼らが悟るためでした。
神の律法を与えられたイスラエルは、割礼の無い異邦人とは異なる、聖なる民であることを自負していました。それで、その心の高ぶりが、イエス・キリストをわからなくさせました。
イエス・キリストを主と告白する者は、幼子たちです。学びを積んだ律法学者や祭司長や長老たちは受け入れることができませんでした。学びのない幼子たちは、霊でイエスを捉えました。イエスを受け入れるのを邪魔する知識を持っていなかったのです。
イスラエルは、イエスをキリストと認めず、神を父と呼ぶイエスを憎み、神を冒瀆する冒瀆罪で、十字架につけました。
彼らは、神が預言者たちを通して語っておられたキリストを、信じないで殺してしまいました。しかし、イエスは、十字架で、彼らの律法の呪いを打ち砕かれたのです。モーセの律法を砕いて、新しい律法を与えるためでした。
新しい律法(御霊)は、割礼の無い者や、律法を守れない者や守らない者にも臨む、新しい契約となりました。
イエス・キリストを信じなかったイスラエルが、神から遠く離れ、この世の事で呻いています。イエス・キリストを信じた異邦人が、神に立ち返り、神の御国を味わっています。
神とともに歩んできたイスラエルが、神が義とされる「信仰」を持っていません。神が義とされるのは、神の御子イエス・キリストを信じる信仰によるのです。ユダヤ人は、律法によって救われないことを知っています。それで、メシアを持ち望んでいます。
神から遠く離れていた異邦人が、十字架の主キリストによって、神に近い者とされました。しかし、神に近い者となったことで、高ぶるならば、イスラエルと同じ過ちを背負うことになります。
新しい律法である御霊を受けた人は、霊とまことをもって、神を礼拝しましょう。神は霊なるお方です。神との交わりによって、うちにおられる御霊は強くなられるのです。御霊が強くなれば、自我は弱まります。
自我を弱くするために心砕いても、自我は益々強くなるだけです。霊とまことをもって神を礼拝し、心が神に向けられ、御霊とともに歩むならば、御霊が造り変えてくださるのです。
御霊を歓迎し、御霊とともにあるならば、聖書の民のユダヤ人も知らされていない真理を、キリストの民に啓いて下さるのです。真理の光は、御霊にあるからです。