ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

宗教の奴隷

 

 ルカの福音書6:1-7に、このような記事があります。

 「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出して食べていた。すると、あるパリサイ人たちが言った。『何故、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。』

 イエスは彼らに答えて言われた。『あなたがたは、ダビデが連れの者と一緒にいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。ダビデは神の家に入って、祭司以外の者は誰も食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。』

 そして、彼らに言われた。『人の子は、安息日の主です。』

 別の安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに右手のなえた人がいた。そこで、律法学者、パリサイ人たちは、イエスが安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった。」

 

 ユダヤ人にとって、安息日は聖なる日です。モーセの十戒に、

 「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息日である。あなたはどんな仕事もしてはならない。―あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。―

 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それ故、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」とあります。

 

 ユダヤ人は、忠実に安息日を守りました。神御自身も安息日を守り、五日間は毎日一日分のマナ(天から降って来るパン)を降らせ、六日目には二日分のマナを降らせて民に二日分のパンを集めさせた。そして、七日目の安息日には、マナを降らせなかった。それで、民は七日目に休んだ。

 

 ユダヤ人は、七日目は自分の場所に留まり、労働をしません。神の御前に安息し、神を礼拝する日なのです。安息日に働いてはなりません。

 

 律法を守る民(イスラエル)のところに来られた、「ユダヤ人の王」と称されるイエスは、律法のうちにいる者なのに、聖なる安息日に、その弟子たちが麦の穂を摘み手でもみ出す作業をして食べているのです。麦の穂を摘むことも、手でもみ出すことも、六日間にすることです。安息日にしてはならないことです。七日目には、先祖たちも、荒野でマナを集めませんでした。神の律法に反することをイエス一行がしています。律法の違反者集団です。ユダヤ人コミュニティーでは、罪に値することであり、律法に厳格なパリサイ人たちは、イエスを責めました。

 

 すると、イエスは、彼らの信仰の拠り所である聖書のことばをもって、答えられました。祭司以外の者は食べてはならないとされる、供え物のパンを祭司から受け取り、ひもじかったダビデも供の者もそれを食べたことを思い出させました。安息日を厳格に守っていても、他の律法を破るならば、律法全体を破ったことになるのです。

 

 イエスは、「人の子は、安息日の主です。」と言われました。つまり、主である「人の子(イエス)」が良しとされることは良いのです。主は、律法に縛られるお方ではありません。安息日を治める主なのです。

 

 パリサイ人たちは、イエスが聖書に書かれている「人の子(メシア)」であることを認めていませんでした。それで、ご自分を安息日の主とされたイエスの言葉を疑っていました。

 

 そこで、会堂に入って教えておられるイエスが、右手がなえた人を直すかどうか、じっと見ていました。安息日に働き、安息日を破ったことを訴えるためでした。

 

 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」と、マルコの福音書2:27,28でも言っておられます。

 

 安息日は、せわしない日常に休息を与えて人間の身体を休ませ、神の家で霊の糧(神のことば)を受け、神の民として成長し整えられる聖なる日なのです。

 

 イエスは言われます。

「安息日は人間のために設けられたのです。」人間あっての安息日なのです。

「人間が安息日のために造られたのではありません。」神は、安息日を守らせるためにイスラエルを造られたのではありません。神は安息日を、神の民イスラエルが健全な発達を遂げるために設けられたのです。

「人の子は安息日にも主です。」イエスは、人のかたちをしていますが、神のひとり子です。安息日は、民が神の御前に安らぐ日です。イエスは民のひとりのようであって、実は、イスラエルの主なのです。神が働いておられるように、イエスも働いています。安息日にも、主イエスは、働いておられるのです。

 

 ヨハネの福音書5:15-18には、このように書かれています。

 「その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。このためユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。

 イエスは彼らに答えられた。『わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。』

 このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。」

 

 イエスは主だから、安息日にも働かれるのです。人を創造された神の御子イエスが、傷ついた被造物を直すために働いておられるのです。

 

 ユダヤ教徒は律法を守ることに熱心なゆえに、律法の奴隷となっています。文字の呪いから解放されなければ、霊なる主イエスを悟ることができません。

 

 キリスト教徒は、教理と教義の奴隷になっています。キリスト教の教えから解放されなければ、主イエス・キリストの御霊を受けることができません。

 

 神は、キリスト・イエスを教祖とする宗教を造られたのではありません。神のひとり子イエスを主とする、キリストのからだを建て上げられるのです。イエス・キリストを頭とするからだは、御霊の信仰と喜びと愛で結び合わされ、調和するのです。

 

 宗教の奴隷たちを覚醒して奴隷から解放し、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに満たし、御霊の新しい創造が彼らのうちに完成することを願っておられます。

 

 主イエス・キリストを信じる者たちに、信仰の結果である、魂の救いを得させるためです。