ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

ピカソ「ゲルニカ」

 

 昨日、日曜美術館というNHK Eチャンネルの番組で、ピカソ「ゲルニカ」をやっていました。描かれているものを細かくチェックし、説明していました。

 

 「ゲルニカ」は、スペイン市民戦争に介入したナチスドイツやイタリア軍が、スペイン・バスク地方にある村ゲルニカの無差別爆撃した出来事を主題とした作品のようです。

 

 ピカソ自身は現状を見ているわけではないようです。ピカソ自身は意味を持たせようとして描いているのではなく、本能的に、無意識に、あるがままを描いたようです。

 

 有名な絵画ですが、私はじっくりと見たことがありませんでした。絵画と言うよりも、暗号のように感じており、何が描かれているのかも知りませんでした。

 

 専門家の解説を聞く中で、人の姿が見えて来ました。ピカソ自身も強く訴える具体的なメッセージを表現しているわけではないようです。観る人によって受け取る印象は異なり、それぞれの受け取ったことが、その人へのメッセージのようです。答えは無いそうです。

 

 太陽の中の電球は、この世の儚い命の時間であり、神から離れた人間が組み立てたこの世の限りある時間であり、真理を消して、偽りの真理の中で過ごしている人類を照らす、一時の光に思えました。神が人や被造物を生かす太陽を造られたのに、神の創造に変え、人間の知恵と努力で自らを生かそうとする人工的な光です。決して命を与えることの無い儚い光の中で、人類は、科学を発展させ、高慢になり、神の創造を破壊しているのです。

 

 死んだ赤子を抱いた母親は天に向かって嘆いています。女は命を産むが、その命が死ぬことは定まっているのです。女は、死んで行く死人を産み出すだけです。母親は子どもの死に直面して、地にうな垂れるのではなく、天に助けを求めます。子どもを愛する母親は、子どもの命を救う方を本能的に知っているようです。科学が発展し、神を嘲笑い神に背を向け人類のおごり高ぶる世であっても、いのちを造ることは、人類には不可能です。

 

 人間は、人類の幸福を願って、あらゆることに知恵を尽くし、知識を出し合い、努力して来ました。しかし、科学の発展に伴い、自分の功績や成功を求め、お金を愛し、人の心はロボットのように感情の無いものに変わって行きました。

 

 人間を乗せて運ぶ馬、荷物を運搬する馬、農耕をし人間を助けるのに役立った馬、人間の家族のように愛で繋がっていた家畜や生き物、また、被造物は、人間の飽くなき欲望のために酷使され、物のように扱われ、命を踏みつけられて来ました。

 

 人間に、命の感謝がなくなったのです。人間のために役立っていた馬は、人間の破壊の欲望と共に、人間の戦いの一部とされました。武具を身に着け、武器を持つ人間の一部とされたのです。被造物はうめきました。

 

 やがて、馬の役目は、科学の力によって、戦闘機やミサイルに取って代わりました。人間が進化発展と息巻いていることは、実は、破壊と滅亡なのです。偽りの光の中で生きる人間には、それを悟ることができません。

 

 前進こそが英雄の歩みです。引き返すなんて面目が立たないことはできません。他人の目に雄々しく映りたいのです。築いた立場を守りたいのです。死んでも守りたいのです。立ち止まったら、他の人が先に行きます。歩み続けなくてはなりません。誰も止めることができません。

 

 こうして、世界は人間の手によって破壊されて行きます。人間が目指した科学の発展の行き着くところは、武器と戦争です。理性は知っています。戦争からは何も得るものが無いことを。一つ得ても、何かを犠牲にしなければなりません。土地を奪い、食糧を奪い、技術を奪い、エネルギー源を奪ったとしても、戦争によって破壊されたものを回復するために、それ以上に時間とお金が必要になります。大勢の命を犠牲にします。

 

 生きている人間の幸福のために知恵を尽くした人類の努力は、感情を殺し、命を命と思わない、非人間を作り出しただけでした。恐ろしい永遠の死(永遠に燃え盛る火の池)に向かうだけです。

 

 真理の光を遮り、神を否定し、人間の力だけで世界を作ろうとした結果、偽りの豊かさや喜びや平和で他人を欺き、互いに騙し合い、争って破壊する世界となりました。

 

 (向かって)右上から、ともしびを持つ手が伸びています。天からのことば、数々の預言者たちのことばであり、神が人類に与えた神のことば、「聖書」を表しているように思います。

 

 偽りの光の中で生きる人類に、真の光、いのちの御言葉が与えられたのです。人間が作り出した宗教の言葉ではありません。天から与えられる、天の神のことばなのです。

 

 地上に注がれる光は、電球の太陽からではありません。天使の差し出すともしび、神のことば(聖書の御言葉)から照らし出されているのです。

 

 右側の膝をついて上に手を伸ばしている人間のいる所は、火の池であり、地獄です。実を結ばない枯れ木の人間は燃やされます。神に助けを求めても、もう遅いです。

 

 ともしびの光に引き寄せられて、その滅びの場所から抜け出そうと一歩踏み出している人がいます。その人には足があり、まだ生きているのです。愛を奪われ、感情も壊され、機械のようになっていましたが、まだ神を知るための命が残っていました。

 

 馬の下には、横たわる人がいます。皆に踏みつけられています。手には傷痕があり、右手には折れて壊れた剣と花があります。人を殺す武器は折られ、花が咲いています。平和ないのちの希望を持つ人です。これは、人類の罪のために命を献げ、十字架で贖いの血を流されたナザレのイエス(神の御子イエス・キリスト)なのではないでしょうか。

 

 左側に立つ牛は、父なる神を表しているように思えます。イエスの救いを受けた母親は、天の神、父なる神に向かって叫んでいます。牛の右目の瞳の形が、人の形に見えます。神は、右の目で、御霊を受ける神の子らを見ておられ、左の目で滅びゆく人間を見ておられるように感じました。

 

 牛と馬との間にある白いものは、鳥です。白い鳩のように下られた御霊ではないかと思います。天からのともしび(聖書の御言葉)は、誰もが見えるところにあります。良い生き方をしたいと、人類が探求して来た哲学や宗教の光のように、すべての人に明らかにされています。隠されてはいません。誰もが見出すことのできるものです。しかし、白い鳥(聖霊)は、聖書の奥義です。聖書の御言葉を知るだけでは見出せません。聖書の中の、主イエス・キリストを信じる者が信仰によって受けるものなのです。

 

 イエス・キリストを主とする者は、平和といのちを得ます。イエスのいのちを得た者は、御霊を受け、父なる神の御前で大胆に主を呼ばわることができます。主を呼ばわる者も、死の悲しみを体験します。人には、一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっているからです。

 

 しかし、聖書の御言葉を食べ、イエスを主と信じ、御霊を受ける人には、死んでも、甦ることと永遠のいのちと永遠の平和と安息が約束されているのです。

 

 私は、この一枚の絵画から、人間の本性と人類の行く末と、神の救いの計画と、平和ないのちの希望の契約を見ることができました。