ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信仰の教師はイエス・キリスト

 

  「子どもらよ。今、私に聞け。私の言うことばから離れるな。あなたの道を彼女から遠ざけ、その家の門に近づくな。」(箴言5:7,8)

 

 「あなたは、他人の妻から身を避けよ。ことばのなめらかな、見知らぬ女から。」(箴言2:16)とも言っています。

 

 「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。」(箴言5:3,4)からです。

 

 エデンの園で、エバをそそのかした蛇の言葉は蜜のように甘く、エバの心をなびかせる巧妙なものでした。柔らかい語り口調で、心に染み入るように、なめらかでした。しかし、その終わりは、神に背く罪であり、死です。

 

 神から出ていない人集めの宗教も、そのようです。神と契約を結んでいる人たちは、神との契約を忘れないようにしなければなりません。

 

 耳障りの良い話は、はじめ蜜のように甘く、幸福なことのように思います。人の悲しい経験や暗い過去からの解放を約束し、正しい生き方を導いてくれるようです。ひとりではありません。真理を知る優しい人が親身に助けの手を伸べてくれます。

 

 しかし、その終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭いのです。過去から解放したように思わせて、新しい重荷を負わせます。まことの神の真理で無いものには、神の愛がありません。神の愛は、犠牲を払ってくださる愛です。神から出ていない、偽りの真理は、愛を語りながら、犠牲を強いるのです。犠牲を払うことを求めて来ます。

 

 あなたの尊厳を他人に渡し、あなたの時間を残忍な者に渡すのです。そして、他国人があなたの富で満たされ、あなたの労苦の実は見知らぬ者の家に渡るのです。(箴言5:9,10)

 

 そんな犠牲を払うために、宗教を求めたのでしょうか。安らぎと幸福のためだったのではないでしょうか。神はその犠牲を喜ばれるのでしょうか。神御自身のひとり子がご自分のいのちを与えるほどに愛された魂です。

 

 サムエル記Ⅰ 15:22で、サムエルは言っています。

 「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼の生贄や、その他の生贄を喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、生贄にまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

 

 神が望まれるのは、神のためにあくせくすることではありません。イエスの足もとで、イエスのお話に聞き入っていたマリアのように、神のことばに耳を傾けることです。神の贖いの御業を感謝し、賛美することから始まります。神への感謝と、神に安息することが、神の喜びです。

 

 真の神は、宗教ではありません。生きて働かれる生ける神なのです。

 

 「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いのです。」(マタイの福音書11:28-30)と、イエスが言われました。

 

 神が与えられる信仰の道は、魂の安らぎの道です。宗教の与える重荷とは違います。宗教の与えた荷を負っても、神からの称賛はありません。

 

 宗教の霊は、真理に混ぜ物をします。そして、神に辿り着かせないようにするのです。すべての宗教には、真理があります。神のことばを語ります。真理は一つですから、神のことばを語るのです。 真理はひとりの神、天の神のものです。しかし、宗教は、真理のことばを使って、人間の言葉を語ります。そして、神との交わりを阻みます。

 

 本当に、宗教には注意しなければなりません。そこには、天に帰るまことの救いは無いのです。

 

 「そして、あなたの終わりに、あなたの肉とからだが滅びるとき、あなたは泣き悲しんで言うであろう。

『ああ、私は訓戒を憎み、私の心は叱責を侮った。私は私の教師の声に聞き従わず、私を教える者に耳を傾けなかった。私は、集会の中、会衆のうちにあって、ほとんど諸々の悪に陥った。』と。」(箴言5:11-14)

 

 神はいつも、語りかけておられます。主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる、正義の神です。(イザヤ書30:18)

 

 主を待ち望むすべての人に、主は語られます。

 「もうあなたは泣くことはない。あなたの叫び声に応じて、主は必ずあなたに恵み、それを聞かれるとすぐ、あなたに答えてくださる。

 たとい主があなたがたに、乏しいパンとわずかな水とを賜わっても、あなたの教師はもう隠れることなく、あなたの目はあなたの教師を見続けよう。

 あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め。』と言うことばを聞く。」(イザヤ書30:19-21)

 

 イエスは言われました。

 「あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。

 あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。

 また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイの福音書23:8-10)

 

 主に望みを置く人の教師は、イエスであり、師はキリストです。