「新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の子羊キリストが、すでに屠られたからです。」(コリントⅠ 5:7)
新しい粉とは、御霊の教えです。文字の律法は、古い粉です。律法を完全に守ることができないからこそ、律法を守れなかったときの裁きや呪いを、神の子羊イエスが身代わりとなって、処罰を受けてくださいました。
もはや、律法の違反によって、裁かれることがありません。すでに、裁きを過ぎ越す、子羊イエスが屠られ、罪は贖われたからです。
律法は、人間を高慢にします。守っていない人を裁き、また、守っていることによって異邦人を軽んじ、我々こそ神に受け入れられる神の民であり、契約を持たない異邦人のように罪深くはないと思いがちです。
しかし、律法における裁きの時代は終わったのです。ユダヤ人も異邦人もないのです。キリストの信者もまた、高慢になることはよくないことです。
「あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体を膨らませることを知らないのですか。」(コリントⅠ 5:6)
誇り高ぶる者の心に悪魔が入り込みます。高慢は、その人の歩みを主の道から外します。その結果、異邦人(信仰を持たずに普通に暮らしている世の人々)の中にもないほどの不品行に走り、罪の生活にはまり込みます。それでも、自分は主の民で、裁かれることはない、と誇り高ぶっています。
「そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。私(パウロ)は、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。」(コリントⅠ 5:2,4,5)
パウロは、新しい粉(御霊)によって作られる純粋なパンに古いパン種を入れてはならない、と言っています。パン種とは、人間の教えのことです。御霊のわざに、人間的なものを入れてはならない、と言うのです。
新しい粉のかたまりで作られる、純粋で真実なパンは、神に受け入れられる供え物です。何故なら、神の御国に入る魂は、パン種(人間の教え)のないものだからです。御霊によって教えられ、御霊に導かれ、御霊のわざによって神の栄光を現わす、神の子どもです。
神の国はことばにはなく、力にあるのです。キリストは、ことばと行ないにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、成し遂げられました。契約の無かった異邦人さえ、聖霊によって聖なるものとされた神に受け入れられる供え物としてくださるのです。
「外部の人たちは、神がお裁きになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。」(コリントⅠ 5:13)
パウロはまた、「兄弟姉妹と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、一緒に食事をしてもいけない。」とも言っています。
キリストのからだを聖く健全に保つために、パウロは、不品行な者を信仰によって、サタンに引き渡しました。ほんのわずかなパン種(人間的なもの)が、粉のかたまり全体を膨らませ、御霊の性質とは異なるものにしてしまいます。新しい粉のかたまりのままでいるために、パン種を取り除かなければなりません。
パン種はシミとなってキリストのからだの聖さを台無しとし、腐れとなり、良い臭いは腐った臭いとなるのです。
パウロは、不品行な者を取り除きました。キリストのからだのためであり、また、彼が、群れから離されサタンに引き渡されたことで、自ら罪の実を刈り取って苦しみを味わいます。そうすることで、肉の実にいのちがないことを悟り、我に返って悔い改めて罪を憎む者となるためです。彼がサタンに引き渡されたことで、目を覚まして神に立ち返り、悔い改めた彼の霊が、主イエスの来られる日には救われる者となるためなのです。
キリストのからだは、御霊によって新しく生まれ、御霊によって成長し、完成されます。御霊の教会の新しい粉(御霊の教え)は、古いパン種(律法を守らせるための人間の教えやしきたりや習慣)を用いたり、悪意と不正のパン種(悪魔が提供する、この世の知恵や知識)を用いたりしないで、パン種(人間の教え)の入らない、純粋で真実な御霊の知恵と力で、神の働きを全うするのです。
神の御国は、人間の熱心や努力によってもたらされるものではありません。生ける神の御霊の、生けるわざなのです。
人が主に与えて報いを受けるのではありません。すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るのです。神の知恵と知識との富が、新しい人を創造し、神の御国へと導くのです。
人集めに熱心な地上の教会は、キリストのからだの聖さに無頓着です。霊的な成長よりも、人の数を気にします。御霊の教会ではなく、人間の教会だからです。キリストの十字架の死、贖いの血で止まっています。肉体をもって地上を歩まれたイエスを見ています。
墓に入り、死から甦られ、御霊によって復活し、天にのぼられたキリストを仰ぎ、キリストの御霊を受けた者は、御霊によって新しく生まれ、御霊に導かれます。
御霊に属する者は、復活のキリストのからだに属する御霊の教会の兄弟姉妹です。御霊の教会の兄弟姉妹が、キリストの真実な兄弟であり、姉妹なのです。彼らは地上の者ではありません。
パン種(人間の教え)を入れない新しい粉(御霊によるいのちの律法によって生きる者)のかたまりは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくことができます。
出エジプトした記念の過越の祭りは、種なしパンで祝われます。キリストの十字架の贖いの血によって、裁きが過越される者は、パン種を入れない純粋で真実なパン(御霊による新しい創造の実、永遠のいのち)で、キリストの十字架のわざを讃えるのです。