ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖書を知ってもイエスを知らなければ空しい

 

 世界で一番多く読まれているのが、聖書でしょう。世界で初めて印刷された書物は聖書です。世界中のあらゆる国で翻訳されています。

 

 日本人は、信仰ではなく、教養として読む人が多いのかも知れません。他の宗教の聖典のように、キリスト教の教典として文字を追いますが、内容は理解できません。聖書は、神から出た書物であって、人間から出たものではありません。

 

 「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」(テモテⅡ 3:16)多くの宗教は、聖書の御言葉を使っています。聖書のみことばが真理だからです。聖書のみことばは、人の心奥深くに届きます。それが聖書に書かれている御言葉であることを知らない人でも、はっとさせられるのです。

 

 何故ならば、聖書のことばは、人を造られた方(神)のことばだからです。人の意識では否定しても、人のうちの霊が反応するのです。聖書は、知恵を与えます。知識に飢え渇く人は、聖書の中に、真理があると思って調べます。

 

 真理は知識ではなく、信仰です。真理は生ける神であり、神の霊によらなければ、読み解くことができません。どれほど長い間、聖書を調べ、みことばを暗記しようとも、その知識が平安と喜びを与えてくれるわけではありません。ずっと、モヤがかかっているようで、目的地が見えないのです。

 

 イエスは言っておられます。

 「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネの福音書5:39,40)

 

 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)のみことばで始まる聖書を読むのに、肉の思いが反発します。創造主を除外して、知識だけ得ようとします。最初のボタンの掛け違いは、どんなにみことばの知識を得ようが、真理に辿り着くことはできません。

 

 聖書は、創造主である神の証言です。御子を遣わした父なる神御自身が、イエス・キリストについて証言しておられます。人は、まだ一度も神の御声を聞いたことがなく、御姿を見たこともありません。また、聖書に書かれている神のみことばを自分のうちに留めてもいません。何故なら、父なる神の証言を聞いているのに、父が遣わした者(イエス・キリスト)を信じないからです。

 

 イエスが行なったわざそのものが、イエスがキリストであり、神がイエス・キリストを遣わしたことを証言しているのです。また、イエスを遣わした父なる神御自身が、聖書のみことばを通して、神の子羊イエスについて証言しておられます。

 

 聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べているのに、父なる神が遣わした者(イエス・キリスト)を信じないならば、いのちを得ることはできません。何故なら、聖書は、イエス・キリストについて証言しているからです。

 

 神は、人類に永遠のいのちを得させるために、イエス・キリストを遣わされたのです。イエス・キリストに出会わなければ、聖書から何も得ていないことになります。聖書のみことばを知らなくても、イエス・キリストを信じるならば、いのちを得るのです。聖書がいのちを与えるのではなく、聖書の中に証言されているイエス・キリストご自身が、人々に明らかにされた救いであり、真理であり、いのちなのです。イエス・キリストを見た者は父なる神を見た者であり、イエス・キリストを信じる者は父なる神を信じる者なのです。

 

 「『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。』

 

 トマスはイエスに言った。『主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。』

 

 イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰ひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネの福音書14:1-6)

 

 聖書の御言葉を引用する宗教は多いですが、彼らは実の無いもみ殻のようです。聖書の知識があり、多くの御言葉をそらんじることができたとしても、いのちはなく、真理の道を歩んでいるのではありません。

 

 永遠のいのちは、死から甦られたイエス・キリストにあるのです。キリスト・イエスが神のみもとに帰る道であり、真理であり、いのちなのです。これが、神が人間に明らかにされた真理なのです。

 

 聖書は、神が遣わされたイエス・キリストを信じさせるために書かれました。聖書は人々に知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。

 

 また、イエス・キリストを信じる者に、教えと戒めと矯正と義の訓練を授け、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるために有益なのです。

 

 神は、イエス・キリストを信じる者に御霊を与えて、御霊によって教え、導かれます。人の知恵や努力や熱心ではなく、キリストの御霊が神の息吹を与え、永遠に生きる者として新しく創造してくださるのです。

 

 聖書は真理の書ですが、イエス・キリストと出会わなければ、いのちを得ることができません。聖書に親しんでも、イエス・キリストに対する信仰がなければ、いのちの実を結ぶことはありません。

 

 「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きは空しい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りは空しい。」(詩編127:1)

 

 どんなに宗教に熱心でも、主イエスによらなければ、天の御国に住まいはありません。主イエスの御霊に守られなければ、霊的な経験も幻も不思議も啓示も、夢のまた夢なのです。