ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

正しくない者は神の国を相続できない

 

 「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。

 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(コリントⅠ 6:9-11)

 

 この世の中の正しくない者が、神の国を相続できないことを言っているのではありません。教会に属する神の民のうちにいる正しくない者のことを言っているのです。彼らは、イエス・キリストを主と告白し、誓いの水のバプテスマを受けた者たちです。

 

 イエスを主と告白し、罪を悔い改める者たちは、キリストの贖いの血の中に入り、罪赦された者となります。どんな罪でも赦されるのです。たとい、人間が赦さなくても、キリストの御名によって神に言い表した罪は、神に赦され義とされると言うのが、キリストの福音です。神が義とされた者を責めるならば、神が裁判官となってくださいます。

 

 弟アベルを殺したカインさえ、神は赦されました。神が弟に対する罪をカインに告げられました。

 「あなたは、いったいなんということをしたのか。聞け。あなたの弟の血が、その土地からわたしに叫んでいる。今や、あなたはその土地に呪われている。その土地は口を開いてあなたの手から、あなたの弟の血を受けた。

 それで、あなたがその土地を耕しても、土地はもはや、あなたのためにその力を生じない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」

 

 主に、「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と問われた時、「知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。」とうそぶいていたカイン。

 

 弟を殺したことは神に知られていたのです。弟の血で、土地が呪われたことを聞いて恐ろしくなりました。誰だって、呪いは恐ろしいものです。殺してしまったという出来事ではなく、そのことから生じる災いに思いが縛られます。

 

 カインは、弟アベルの命を殺めた責任を負わなければなりません。怒りと憎しみに支配されたカインが、正気に戻りました。これから、自分の身に起こる苦難を知って、我に返ったのです。カインは、自分のことを心配しました。

 

 弟アベルを殺したことに対する悔いではありません。その結果、こうむる報いの重さに打ちひしがれたのです。カインは、自分のことを思っていました。

 

 カインは主に申し上げました。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」

 そして、嘆くのです。「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう。」

 

 自分の犯した罪を悔いるのではありません。罪の結果、自分をこの土地から追い出される主の仕打ちに思いが向けられています。殺した弟を憐れむ心ではなく、この土地を追い出されて神の御恵みを失い、地上をさまよう自分の身を憐れんだのです。

 

 殺人者となった自分は、殺されて当然の罪人であることは承知したようです。血はいのちです。いのちには、血をもって償うしかありません。しかし、主はカインに仰せられたのです。

 「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける。」

 そこで主は、カインに出会う者が、誰も彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを与えられたのです。七倍の復讐が返って来る神の後ろ盾のあるカインは、いのちを守られたのです。

 

 死に等しい罪を犯したカイン。主は、自分の身に起きるわざわいを恐れるだけで、正しい悔い改めをしたわけでないカインを、死から守られました。

 

 カインのいのちを守られた主が、イスラエルの主です。イスラエルの主は、エゼキエル書33:11で、民に語られます。

 「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ―わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」

 

 神は、キリストの血で罪赦され、神の御霊によって洗われて聖なる者とされ、義と認められた主イエスの民が、罪の中に留まるのを正しいとはされません。罪が赦された義人でも、遊女と交われば、一つからだになるのです。不品行を避けなければなりません。

 

 人が犯す罪はすべて、からだの外の事柄です。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

 

 主と交われば、一つ霊となるのです。そして、そのからだは、うちなる御霊の聖霊の宮なのです。聖霊の宮である者のからだは、もはや自分自身のものではないのです。

 

 聖霊の宮は、キリストの血潮という代価を払って買い取られた魂です。キリストのからだの一部である者が、キリストのからだを取って遊女のからだとすることは絶対に許されないのです。

 

 新しい葡萄酒は新しい皮袋に入れなければならない、と主イエスは言われます。主は、律法の民(ユダヤ教徒)からメシアの契約を取り上げて、主イエスを信じる新しい契約のキリストの民に御霊を与えられたのです。

 

 律法の民を退け、長い間、契約のない異邦人に御自身の御恵みを注がれました。異邦人は、イエス・キリストを主と告白する恵みをいただいたのです。主イエス・キリストを信じる信仰によって、神の国を相続する新しい民とし、神の民に加えられるのです。

 

 その救いを全うしなければなりません。主は、正しくない者の死を喜ばれるのではありません。正しくない者が罪を悔い改めて、生きることを喜ばれるのです。神は、正しくない者が神の国を相続できないことを知っておられるからです。