ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

よけいに愛する者はよけいに赦してもらった者

 

 イエスはたとえ話をされました。

 「『ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。』

 シモンが、『よけいに赦してもらったほうだと思います。』と答えると、イエスは、『あなたの判断は当たっています。』と言われた。」(ルカ7:41-43)

 

 イエスを招いたパリサイ人シモンの家に、罪深い女が香油の入った石膏の壺を持って来て、泣きながら、イエスの後ろで御足を濡らし始め、神の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗ったのです。

 

 シモンはこれを見て、心で思ったのです。「この方(ナザレのイエス)がもし預言者なら、自分に触っている女が誰で、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」

 

 イエスの問いに、シモンは正しい答えを出しました。イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と、シモンの答えを認められたのです。

 

 パリサイ人は、律法を厳格に守る人々です。律法を守らない者とは付き合いをしません。神の民は、律法を守るべきなのです。守らない者は神の民から排除すべきです。神の民としての振る舞いは、律法に則った善い行いなのです。行ないが正しければ、神に義とされるのです。

 

 イエスは言われました。

 「この女を見ましたか。わたしがこの家に入って来たとき、あなたは葦を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足を濡らし、神の毛で拭ってくれました。

 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしが入って来たときから足に口づけしてやめませんでした。

 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、歌の書はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

 

 この女は、イエスが神の人だと知り、神の御前で罪を悔い改め、心を入れ替えたのです。彼女の涙は、聖い神の御前で自分の汚れを言い表していました。自分の不道徳な生き方をこの女は誰よりも知っており、神の御子の前で自分の罪を懺悔していたのです。

 

 この女の魂は、イエスがキリストであり、罪を赦す方だとわかっていたのでしょう。自分ではどうすることもできない惨めな者であることを、幼子のように純真な心で詫びていたのでしょう。

 

 サマリヤの女も不道徳で蔑まれる生き方をしていました。しかし、サマリヤの女は知っていたのです。「私は、キリストと呼ばれるメシアの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」と、イエスに言いました。

 

 イエスはサマリヤの女に答えて言っておられます。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 

 イエスには、蔑みなんて無いのです。罪人を憐れむ神の御子です。香油を注いだ女も、サマリヤの女も、キリストを待ちわびていた人です。

 

 善をしたいという願いがあるのに、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。私は、本当に惨めな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。彼女たちの霊は、常に神に向かって叫び、救いを求めていたのでしょう。

 

 彼女たちの魂は、神の救いを渇望し、キリストを待ちわびていたのです。

 

 パリサイ人や律法学者たちは、律法を厳格に守る自分に満足していました。自分は罪とは縁遠いと思っていたのでしょう。彼らにとって、キリストは、自分たちを認めて称賛してくれる良い指導者であり、ユダヤ民族を他国の支配から救い出してイスラエルの栄光を回復してくださる救い主です。

 

 律法を厳格に守っている自分たちにとって、個人的な罪からの救いを求めるということはありません。自分たちは大丈夫です。民族全体の贖いを待ち望んでいました。

 

 香油の女も、サマリヤの女も、自分の罪に縛られていました。周囲の人々の非難ではありません。自分自身の咎めから解放されなければなりません。罪の赦しを宣言してくれる人は誰でしょう。パリサイ人は、自分たちを罪に定め、正しい道に行くのを阻みます。

 

 キリストは、神である主の霊がその上にあり、主に油注がれ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒し、捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げてくださる方です。(イザヤ61:1,2)

 

 罪に捕らわれた女たちは、悲しむ者を慰め、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けてくださる、キリストを持ち望んでいました。

 

 罪の赦しを求めないパリサイ人は、自分の罪も罪が赦されることの歓喜もわかりません。彼らは、イエスがキリストであることがわかりませんでした。しかし、罪深い女たちは、自分の罪がよくわかり、その罪が赦されたことの喜びは測り知れません。自分自身をキリストに献げるほど、イエスを愛するでしょう。

 

 聖書をよく知るパリサイ人たちが、モーセが、「あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。」と命じたあの預言者に聞き従うことができませんでした。

 

 罪をよく知る人は、赦しの大きさを知り、心の苦しみ、死に等しい罪からの救いを受けて、キリストを深く愛するのです。