ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

血はいのち 信仰はいのち

 

 神は、洪水から救い出したノアとその息子たちを祝福して仰せられました。

 「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

 人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9:4-6)

 

 申命記12:23ー25でも、「血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいとみられることを行なわなければならない。」とあります。

 

 血はいのちそのもののようです。神は、神の民として造られたユダヤ民族に、主が正しいとみられることを行なう民として、食物規定を与えられました。彼らは、血抜きした肉を食べます。神は、彼らをしあわせにするために、守るべき戒めを与えておられるのです。

 

 血はいのちです。いのちは神御自身です。神は人を神のかたちに造られました。人を殺すことは、その人だけではなく、その人のうちにおられる神と神のご計画を殺すことになります。

 

 神は、そのいのちのためには、血の価を要求されます。それは、神の民であろうと同じです。人のいのちのためには、人のいのちを要求されます。

 

 いのちを害する者のために、いのちを要求し続けた結果、誰も存在できなくなります。すべての人は罪人だからです。すべての罪人にいのちはありません。みな死人です。人類にいのちがない、という結果となりました。アダムの罪の報いです。

 

 いのちのために人のいのちを要求される神は、いのちのある「人の子」を必要とされました。罪の無い神のひとり子に肉体を造り、「人の子」として地上に遣わされました。いのちのために人のいのちを要求される神は、神の子羊イエスの血の価を要求されたのです。

 

 「彼(アブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」と創世記15:6にあります。神の贖いの計画は、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じたアブラハムの信仰から始まりました。アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以です。

 

 信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。

 信仰によって、アブラハムは約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

 アブラハムは、堅い基礎の上に建てられた生ける神の都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神御自身です。

 

 堅い基礎は、イエス・キリストによって完成しました。神は、御子イエスを、神の子羊として、エルサレムで罪の生贄とされました。神の子羊イエスの贖いの血が、ヤコブが相続財産として受けたイスラエルの地に流されました。

 

 人のいのちのために、贖いの子羊イエスの血の価を要求された神は、罪の生贄の子羊イエスを満足されました。神の怒りはなだめられ、子羊イエスの血は罪咎を聖めました。

 

 アブラハムの信仰から始まった贖いの計画は、神のひとり子イエスの贖いの血で完了しました。神の子羊イエスが、父なる神に聞き従ったので、完了したのです。イエスの信仰が、贖いのわざを完成したのです。

 

 イエスは、父に従い、十字架の死と復活を体験されました。いのちの血を注ぎ出されたのです。イエスの血は、死んだ魂を生き返らせ、肉体の死から復活させて、永遠に生きるいのちを与えます。人の血は、生きるいのちであり、子羊イエス「人の子」の血は、生かすいのちです。

 

 神は、イエスの血を受けイエスを救い主と信じる者に御霊を与えられます。信じる者は、御霊によって、イエスと結び合わされ、肉に死んで新しく生まれ変わるのです。これは、キリスト・イエスによる新しい契約です。信仰による救いです。

 

 アブラハムの信仰から始まった、救いの計画は、父である神に従順な主イエスの信仰によって完成されます。主イエスの信仰のうちに入る者はみな、イエスのように、肉体に死んでも、復活のからだと永遠のいのちを受けるのです。

 

 主イエスは、新しい契約、いのちの契約の信仰の創始者です。新しい契約では、イエス・キリストがいのちであり、主イエス・キリストを信じる信仰がいのちなのです。

 

 人類の血はいのちでした。死に向かういのちでした。キリスト・イエスの血は永遠のいのちです。永遠に生きるいのちです。

 

 死に向かう者を殺す者は、いのちを要求されます。肉体の死を要求されるのです。永遠に生かすイエスの信仰を消す者は、永遠の滅びを宣言されます。イエス・キリストの信仰に、いのちがあるからです。

 

 いのちは、肉体の血にあります。永遠のいのちは、十字架にかかられた主イエス、死から甦られ復活された主キリストの血にあります。

 

 キリストの福音は、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。福音のうちには神の義が啓示されていて、その義はただ信仰によるのです。信仰に始まり信仰に至らせるのです。「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

 

 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」

 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(ヘブル10:37-39)

  

 神の御心を行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。

 「信仰を持つ生きた者、いのちある者たちは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。」(ヘブル12:22)