ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

悪者さえも御自分の目的のために造られた

 

 「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、悪者さえもわざわいの日のために造られた。主はすべて心おごる者を忌み嫌われる。確かに、この者は罰を免れない。

 恵みとまことによって、咎は贖われる。主を恐れることによって、人は悪を離れる。主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵をも、その人と和らがせる。」(箴言16:4-7)

 

 全世界は、それを造られた主のものです。しかも、それらは偶然出来上がったものではなく、主がご計画をもって、御自分の意思で造られたのです。

 

 神が善であるなら、何故、神の造られたものに悪があるのか、神が聖であるなら、何故、聖くないものが存在するのか。神は全能では無いのか。神の失敗作なのか。しかし主は、悪者さえも主のご計画に必要であるから、造られたのです。

 

 主は、ヨブに言っておられます。

 「非難する者が全能者と争おうとするのか。神を責める者は、それを言いたててみよ。」(ヨブ40:2)

 

 神にはご計画があります。人が知るのは、その一部なのです。神はご自身のご計画の全貌を知らせ、人にまかせることはなさいません。神は、歴史を貫いて、人を導いておられるのです。歴史全体で見るならば、ひとりの人の息のある時間はほんのわずかです。行き巡る範囲も限られています。

 

 神はその御計画を共有するひとりの人を造られました。それが、神が処女マリアの胎に宿したイエスです。神は、神のひとり子に肉体を造り、神の御計画を担う「人の子」として、世に遣わされました。

 

 神に欠けはありません。すべて、神の目的通りに設計し、事を運ばれるのです。知識がないのは、人間のほうです。神が愚かなのではありません。神が不完全なのではありません。世界にあるものは神の摂理によって、それぞれの役割を担って、世に生まれているのです。

 

 もし、神が御自分だけに心を留め、その霊と息をご自分に集められたなら、すべての肉なるものは共に息絶え、人は塵に帰るのです。

 

 イエスについて書かれた預言を成就するために、バプテスマのヨハネが造られました。イエスについて書かれた預言を成就するために、ヘロデ王もイスカリオテのユダも造られました。

 

 神がいるならば、どうしてと思う事の中にも、神の御心があるのです。

 

 寝たきりの身体障害児童のお世話をするクリスチャンの姉妹が言ってました。「彼らは、神に近い。自分を嘆くのでもなく、神を恨むのでもなく、ただ自分の置かれたところに存在していのちを味わっている。彼らは、健常者が感じ取ることの出来ないものを感じ取り、健常者が忘れている生かされている恵みをわかっている。」

 

 「身体に障害があるけど、心に障害は無い。心が純粋で、彼らの中に神を見ることができる。私は、彼らの在り方を通して、人間は生かされている存在であることに思いを巡らす事ができた。彼らの心の健気さに心が洗われ、日常のせわしなさで置き去りにしてきた大切なこと、いのち(つまり、生かしてくださる神のこと)のことを意識することができるようになった。」

 

 「彼らを慰めるつもりで、実は、自分の方が慰められていた。彼らを見ていると、妬みや争いや憎しみやいじわるの悪い心は追いやられ、優しい気持ちになって、癒される。彼らは、いつも愛を発信してくれる。」

 

 神は互いの欠けた部分を通して、愛と憐れみを培っておられます。すべてのことに意味があるのです。

 

 たとい、すべてのものを所有し、すぐれた者であっても、他人を蔑み心おごるならば、その者は、神の御国に相応しくない者です。主は、心おごる者を忌み嫌い、その者の罰は免れないのです。

 

 悪者であっても、自分の罪深さを悲しみ悔いるならば、神の救いの御手は差し伸べられます。そして、キリスト・イエスの贖いの血によって、彼の罪を贖い、彼の罪を赦されます。神の赦しを体験した者は、神に意識が向けられます。神を知ると、悪いことに心が痛む者となっていきます。主を恐れることで、たとい、極悪人であっても、命懸けで悪を離れようとします。

 

 悪者が造られたことで、人は、正しいものを求めるようになるのです。悪者にも、悪者の役割があります。

 

 悪者の成れの果てを見て、悪事に手を染めることの恐ろしさを追体験します。因果応報の道理があることを悟るのです。知恵ある者は、それを悟るのです。

 

 悪者は、正しいことを望みません。真実なことに蓋をし、自分の利益を求めます。それが、悪者の性分です。彼らは、この世で自分の思いのまま、邪気を持って立ちまわります。

 

 わずかな良心を自分の中に抱え、良心に目覚めた時、全く新しい者に生まれ変わるのも、悪者に備えられた主の栄光です。

 

 主によって造り変えられると、変化が起きます。主は、人の行ないを喜ぶとき、その人の敵の心をも、その人と和らがせられるのです。裏切りと憎しみと争いしか無かった彼の人生に、愛と憐れみと恵みが注がれるのです。

 

 ヨブは全能者のことばを聞いて、告白しています。「あなたには、すべてができること、あなたは、どんな計画も成し遂げられることを、私は知りました。」(ヨブ42:2)