「教えを捨てる者は悪者を褒める。教えを守る者は彼らと争う。
悪人は正しいことを悟らない。主を求める者はすべての事を悟る。
貧しくても、誠実に歩む者は、富んでいても、曲がった道を歩む者にまさる。
教えを守る者は分別のある子、放蕩者と交わる者は、その父に恥ずかしい思いをさ
せる。」(箴言28:4-7)
「御使いのかしらミカエルは、モーセのからだについて、悪魔と論じ、言い争ったとき、あえて相手をののしり、さばくようなことはせず、『主があなたを戒めてくださるように。』と言いました。」(ユダの手紙9)
教えを捨てる者は悪者を褒めます。夢見る者や、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしる悪者の味方になります。これらの悪者は、自分には理解もできないことをそしり、わきまえのない動物のように、本能によって生き、彼らの最期は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
教えを守る者は悪者と争います。悪者と心一つにすることはできません。神の義により頼み、悪者の意見と言い争います。神の義に逆らう者に同調することがありません。彼らは、聖なることを求め、聖なる神に忠実です。
悪人は正しいことを悟ることがありません。神に敵対する霊とともにいる者に、正しいことを悟ることはできません。彼らが正しいと思うものは、神が憎むものです。神が正しいと思われるものを彼らは憎みます。
主を求める者は、主の御霊によってすべての事を悟ります。主に、すべての知恵があるからです。知恵は主のもの、神のものです。地上でうごめき、天に上ったことのない、虫けらのような儚い人間に知恵はありません。あると思っても、神の知恵に比べれば愚かなものです。
正しく歩む貧しい者は、曲がった道を歩む富める者にまさります。貧富は、この地上のことです。神の国は、みな豊かなのです。正しく歩む者は、たとい、貧しくても、すべてのものを持っています。神の国は、彼らのものだからです。
曲がった道を歩む者は、永遠の富を持つことができません。彼らの持っている富は、地上のものであり、朽ちるものです。彼らの富は、彼らとともに滅びます。彼らには、何も残りません。
ヤコブの手紙1:10,11に、このように書かれています。
「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。何故なら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。
太陽が熱風を伴って上って来ると、草を枯らしてしまいます。すると、その花は落ち、美しい姿は滅びます。同じように、富んでいる人も、働きの最中に消えて行くのです。」
教えを守る子は賢い子です。神の知恵を持っています。御霊が彼とともにおられます。神が良いとみられる正しいことを守り、悟ります。彼らは、神を知る者となるのです。
不品行な者と交わるものは、悪い実を実らせます。自分の欲におびき寄せられます。引き止める者は誰もいません。理性が麻痺し、自分の欲に引かれ、誘惑されるのです。すると、欲がはらんで罪を生み、罪が進むと良心は無感覚になります。そして、罪が熟すると死を生みます。
教えを守る者は、分別のある子となり、放蕩者と交わる者は、父に恥ずかしい思いをさせます。
神のみことばのうちを歩む者は、正しい道を歩み、父なる神のもとに帰る恵みにあずかります。神のみことばを離れて自分の思いのままに生きる者たちが、神を恐れない者と交わるならば、感情と理性のコントロールを欠いた動物のような者になるのです。朱に交われば赤くなるのです。
教えを守る正しい者は、神の誉れであり、神の家族です。
放蕩者と交わる者は、その父にも、父なる神にも恥となります。
教えを守る正しい者は、妥協しません。聖なる方を見つめ、聖なる方に従います。主に、真実があり、慈しみがあり、赦しがあり、永遠があり、いのちがあることを知っているからです。
教えを捨てる者は、神に従う者を蔑み、神を神としない悪者を高く評価します。悪者の悪を容認することで、自分のうちにある悪をも許されると感じるからです。神に逆らい、自分の思いのままに生きることを望むのです。
教えを守る者は、真理に逆らい悪に同調する者らに敵対します。人間的に折り合いをつけることはしません。真理のために、彼らと争います。
彼らを彼らの不義とともに受け入れることが、愛だとは思っていないからです。愛は、神御自身です。愛なる神の真理に反することに敵対し、神のみことばを曲げることはしません。