ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

私に定められた分の食物で私を養ってください

 

 「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。

 貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」(箴言30:7-9)

 

 裁き主であり、天の御国の王なる主の評価は、この地上で過ごした命の値打ちで魂をはかられます。人間がこの世で生きた時間の中で決まるのです。死をもって、その人に課せられたいのちの試験は終了するのです。死とともに、おのれの価値を更新するチャンスを失います。

 

 それを知る知恵者は、言います。「二つのことをあなた(神である主)にお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。」

 

 知恵者は、裁き主である主の評価を気にします。この地上での命の使い方、過ごし方の判定結果によって、死後の永遠が決定するからです。

 

 足元がすくわれないために、不信実と偽りを警戒します。自分自身では、何が不信実で何が偽りであるのかを判別することができません。正しいと思ったことが、後に誤りであることに気づきます。心躍らせていたことが、偽りのものであったことに気づくとき、自信を失います。自分が信じられなくなります。何を信じたらよいのか混乱します。

 

 知恵者は、とても重要なお願いをしました。識別できない自分を守るために、自分の目に入らないところに、また、自分の耳に届かないところに、不信実と偽りを追いやってください。不信実と偽りとを自分から遠ざけてください、と願ったのです。

 

 知恵者であり、栄華を極めたソロモン王は、神のみことばを守らず、自分の思いに従って、外国の女たちを妻として、それらの妻とともに彼女たちの礼拝する偶像を受け入れ、主の道から外れてしまいました。

 

 王であるソロモンは、知恵にも富にも名誉にも恵まれました。繁栄とともに、心が太り、神にへりくだる者ではなくなりました。彼の豊かな富が、彼を誘惑しました。彼の地位と栄誉が、彼を高ぶらせました。不信実と偽りに囲まれて、気づいたときには、主の道から遠いところにいたのです。

 

 神から遠くに行ったソロモン王の霊は、あがきました。自分が、神の忌み嫌うものに囲まれていることを悟ったのです。しかし、自分からそれらを手放すことができません。自分で遠ざけることができないのです。どうしたら良いのかわかりません。主に願いました。「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。」と。

 

 富のある者のところ、また、権威のある者のところに、ご機嫌をうかがう者たちが群がります。富のある者や権威のある者の心は王となり、まことの王(神)にへりくだることができません。彼の魂は、群がる者らによって、陰府(よみ)へと導かれます。

 

 知恵者は、もう一つのことを願いました。「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」

 

 それは、食べ飽きて、神を求めず、「主とはだれだ。」と言わないためです。神を否む者になりたくないのです。心高ぶって、神を否み、神不在によって自分の魂を放置し、恐ろしい結末を迎えたくないのです。

 

 人は、富で身も心も太り、神を否むようになるようです。彼にとって、お金がすべてです。神がいなくても、すべてのことは、お金で解決できます。お金が彼を守る神となっています。もう、戒めや教えで縛る、神の権威に服したくはないのです。神の教えから離れ、お金の力で自由の身となったと思います。しかし、その歩みの先は滅びです。神から自由になったと解放感に浸っていたら、実は、罪の奴隷、悪魔の奴隷になっただけでした。

 

 知恵者は、富を与えないでください、と願いました。お金は、アヘンのようなものです。不安感を取り除き、苦しみを取り除いてくれます。しかし、中毒性を持ち、廃人同様とさせる、怖いものです。

 

 イエスご自身も、「金持ちが天の御国に入るのは難しい。」と言っておられます。(マタイ19:23)

 

 また、貧しさを与えないでください、と願いました。貧しくて、盗みをし、神の御名を汚すことのないためにです。貧しくて食べる物がないと、倫理観が崩れます。道徳心でお腹は満たされません。生きる本能が働きます。食べたいという本能は、理性を押し倒します。生きることが先決です。生きるためには、食べ物が必要です。食べ物を得るためには何でもします。

 

 知恵者の願いは、「ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」です。人は、多すぎても、少なすぎても、理性を失い、正しく生きることに困難を覚えます。

 

 神は荒野でユダヤ民族を養われました。天からのパン、マナを降らせて、それを食物として民に与えられました。毎日、天からマナが降ってきました。民は毎日、自分が食べる一日分のマナを集めました。自分の食べる分だけ集めたのです。ある者は多く、ある者は少なく集めました。しかし、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことはありませんでした。各自は自分の食べる分だけ集めたのです。

 

 一人ひとり、必要とする分量があります。みなが同じではありません。均等であったなら、足りなくてお腹を空かす者もいれば、多くて腐らす者もいます。それぞれ自分の必要とする分量があれば、十分です。すべての者が公平に分けられるのです。

 

 少ない者が多い者を羨むことはありません。少ない者が多い者と同じだけ持っていても、余らせるだけです。多い者が少ない者を蔑むことはありません。多い者は、少ないものでは満たされないのです。これで十分だと言わないのです。

 

 多い者も少ない者も、主の御前で、十分なのです。

 

 知恵者は言います。

 「さあ、喜んであなたのパンを食べ、愉快にあなたの葡萄酒を飲め。神はすでにあなたの行ないを喜んでおられる。

 いつもあなたは白い着物を着、頭に油を絶やしてはならない。」(伝道者の書9:7,8)

 

 神が自分に与えてくださったもので満足し、贖われた者にふさわしい聖い生活を心掛けて、主を賛美し喜んでいることが、永遠の救いなのです。

 

 富むことにおける失敗も、貧しいことにおける失敗も、主の道から遠くに追いやります。それで、安全な道を歩むために、知恵者は言うのです。

 「私に定められた分の食物で私を養ってください。」