ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

信者にあるものはイエスの名

 

 「ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。すると、生まれつき足のきかない男が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。彼は、ぺテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。

 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、『私たちを見なさい。』と言った。男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。

 すると、ペテロは、『金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。』と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりと一緒に宮に入って行った。

 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。」(使徒3:1-9)

 

 イエスの弟子のペテロとヨハネは、宮にいる施しを求める男に、お金を与えませんでした。男は、施しを求めるために宮にいました。貧しい者に施しをすることは、ユダヤ民族の律法にかなっています。男は足がきかなくて、糧を得るために働くことができませんでした。しかし、ペテロとヨハネは、自分たちには、与える金銀がないことを伝えました。

 

 ペテロもヨハネも、キリストがお与えになった聖霊を受け、御霊を宿していました。彼らは、イエスが与えた新しい契約と新しい律法によって生きる者たちです。古い律法では、施しを命じています。しかし、新しい律法に生きる彼らは、新しい律法に従いました。彼らは、文字ではなく、御霊に従いました。

 

 施しを受けることは、神の御恵みであり、受ける者と与える者双方の祝福です。しかし、ペテロもヨハネも、朽ちない宝を持っていました。金銀はないけれども、永遠に価値のある神の御霊を持っていたのです。

 

 ペテロは言いました。「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」そして、男の右手を取って立たせました。

 

 すると、どうでしょう。たちまち、男の足とくるぶしが強くなって、まっすぐに立ち、歩き出したではありませんか。そして、歩いたり、跳ねたりしながら、神を賛美しながら、ペテロとヨハネのふたりと一緒に宮に入って行ったのです。

 

 男は、お金が欲しかったのではありません。自分を養うものが必要だったのです。もし、男が施しだけを当てにしている者でしたら、ペテロの言葉に舌打ちしたでしょう。律法を守らないふたりに、(神がおさばきになるように)と思ったのかも知れません。しかし、男は、ペテロを見上げて、ペテロの手に自分をゆだねました。

 

 男は、宮の門にいながら、宮に入ることができませんでした。足がきかなくて、歩くことができなかったからです。宮の門にいて宮に入って行く人々を見ながら、自分も宮に入り、宮で神に祈りたかったのでしょう。

 

 「歩きなさい。」というペテロの言葉は、男を突き動かす力がありました。今まで、自分の足で立ったことがありません。生まれつき、足がきかないのです。自分の足で立って歩くなんて、夢のまた夢です。しかし、男が心底求めていることです。そのことは、施しを受けることに勝っており、自分の人生を変えることです。

 

 ペテロは、イエスが復活したこと、イエスがメシアであることを、あちらこちらで言い広めている、ナザレのイエス・キリストの弟子です。希望の光が差しました。光明が見えたのです。

 

 男のうちに、神の霊が働かれました。弱々しくて、生まれてこのかた、自分の体重を支えることのできなかったくるぶしが強くなり、自分の足で立ちました。からだの欠けが満たされました。

 

 男はおどり上がって、跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、宮に入って行ったのです。男は知っていました。足を直したのは、ペテロではないことを。神の霊を感じたのです。神がお癒しになったことを、はっきりと知りました。

 

 ペテロの言う、ナザレのイエス・キリストの名による、神のわざなのです。男は、神を賛美しました。男は、主に結びついたのです。人間のペテロではなく、ペテロのうちにおられる主、ペテロを通して働かれた神に結ばれたのです。男は、神を賛美する者となりました。

 

 かつて、イエスは大声で言っておられました。

 「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

 

 イエスの弟子たちの心の奥底から、生ける水の川(御霊)が流れ出たのです。そして、生まれつき足のきかない男は、その生ける川の水を飲んだのです。

 

 男が渇いて、イエスのもとに来て飲んだのではありません。イエスご自身がペテロとなり、ヨハネとなって、男のところに来て、生ける水を与えられたのです。ペテロもヨハネもイエスを運ぶ器であり、御霊の宮なのです。

 

 イエスを信じる者は、御霊を受け、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになると言うのが、イエスの約束です。

 

 弟子たちは、人道的慈善行為の群れではありません。御霊の力によって働くキリストの同労者なのです。

 

 人間の働きならば、人間が称賛されます。御霊の働きならば、神が賛美されます。ペテロもヨハネも御霊の通り良き管であり、また、天の栄光であり地の宝である、主イエス・キリストの名によって事を成す、神のしもべなのです。

 

 イエスは言われます。

 「わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14) 

 

 御霊を受けた者は、渇くことのない水を飲んだ者です。イエスの名によって、神のわざをする御霊を宿しています。御霊に従って、イエスの名で祈るならば、神の栄光を見るのです。

 

 いのちの神に立ち返るわざは、御霊の働きです。それは、御霊を宿し、永遠のいのちを持つ者にゆだねられています。イエスの名によって祈り、イエスの名によって癒し、イエスの名によって解放します。

 

 また、憐れみをかけることや施しも大切だ、と主イエスは言っておられます。