数年前、ヨセフ・シュラム師の「キリスト教徒からキリストのからだへ」というテーマのセミナーに参加しました。
そこで教えられたことは、「世界の教会は教団、教義、礼拝形式によって一つになるのではなくて、信仰のかしらをキリスト、信仰の土台をイスラエルに置くことで、ひとつのキリストのからだとなる」ということです。また、礼拝や賛美は、神が人の本能に埋め込まれた機能であることを、知りました。
教会は今日まで神をどう礼拝するのか等、神中心主義を貫いて来ましたが、神御自身は、人が互いにどう接するかを重要視しておられる。そこに信仰が現わされるからである。貧しい人々を憐れみ、兄弟姉妹や未信者に対してキリストの思いのごとく接する、これこそが神を敬う行為であり、礼拝なのだ、と言われました。今、一緒にいる人々とどう関わるかが課題なのです。
神はイエスを通して、人間同士の関わり方も教えられた、と言われました。愛が冷めていくと聖書に書かれているこの時代、今置かれている環境や人間関係に心を背けて神に逃げ込み、それを信仰深いかのように錯覚する惑わしに気づかされました。
ヤコブ1:22-27には、こう書いてます。
「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。
ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。
自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。
父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」
行ないのない信仰を改め、自分の隣人に、その人とともにおられる神を認めて、キリストが接しられたように、接することが主の願いだと知りました。信仰とは、日常生活の中にあるのだなぁ、と思いました。また、そのことを実行することの難しさも覚えます。信仰に立っているつもりでも、鏡をながめただけの生活であったと思います。
一人ひとりのキリスト教徒は、それぞれの日常生活の中で砕かれ、神に従順な者に整えられていく、と言われました。普段の生活の中に、神の御手が働いているのですね。
キリストのからだとされる教会は、信仰の土台であるイスラエルを正しく理解し、祝福することが、主の望まれる姿である、と言われました。
神は、神のひとり子を地に遣わすために、神の民イスラエルを造られました。
イスラエルがなければ、まことの神を人々に知らせる『聖書』は存在しませんでした。
イスラエルがなければ、罪を贖う神の子羊イエスは、遣わされませんでした。イスラエルは、子羊イエスを生み、神の子羊イエスを十字架で屠る祭司の国民です。
イスラエルがなければ、キリストの福音は世界に宣べ伝えられることはありませんでした。イエス・キリストの弟子のユダヤ人たちが、最初宣教したのです。
イエスはイスラエルに生まれ、ユダヤ人に、父なる神について、永遠のいのちについて、神の国について教えました。
そして、祭司長たちに十字架につけられ、贖いの子羊の血を流されました。罪の贖いのわざは、キリストの血によって完成しました。
墓から甦ったイエスを目撃したのも、ユダヤ人です。彼らは、自分の目で復活のイエスを見、自分の耳でイエスのみことばを聞いたのです。
ユダヤ人にとって、イエスは実在するキリストです。イエス・キリストの存在は、ユダヤ人にとって、現実なのです。
神の御心は、エルサレムからも、イスラエルからも離れることがありません。神のご計画は、エルサレムと、イスラエルと、契約の民ユダヤ民族とともにあるのです。
ペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と言ったとき、イエスは言われました。
「あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:16,18)
イエス・キリストを主とするユダヤ民族の契約の上に、キリストのからだは建て上げられます。それは、死をも滅ぼす、生ける神の教会です。永遠に生きるキリストのからだです。
エデンの園で、蛇は、神から言われました。「彼(キリスト)は、おまえ(悪魔)の頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとに噛みつく。」
「彼のかかと」とは、かかとの意味を持つ「ヤコブ」のことです。つまり、ユダヤ民族のことです。イスラエルがキリストを生み、十字架の死と復活の栄光のあとで、神は、ユダヤ民族をイスラエルの地から離散させました。イエスをキリストと認めなかったからです。
ナザレのイエスが、十字架で悪魔の呪い(罪と死の呪い)を打ち砕きました。しかし、悪魔はかかと(ヤコブ)に噛みつき、イエスをキリストと認めさせませんでした。
神は、ユダヤ民族をキリストのからだのかかとにされています。かかとが悪魔に噛みつかれて負傷すれば、キリストのからだは立つことができません。キリストのからだがハデスの門も打ち勝てない、天の力を発揮するためには、かかとが健やかに立たなければなりません。
キリストの教会は、かかとの回復のために祈らなければなりません。キリストのからだは、契約の上に建て上げられるのです。契約の民ユダヤ民族の神との契約がキリストのからだの土台となるのです。人類の中で、神との契約を持つ民族は、ユダヤ民族だけです。民族の救いが約束されているのも彼らだけです。
からだは一つ、御霊は一つです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。キリストのからだは一つであり、キリストは、このからだのために死なれたのです。
キリストの教会には、イスラエルがアブラハムと契約を結ばれ、モーセと契約を結ばれた聖書の神に立ち返り、彼らの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神がイスラエルに遣わされた主イエスを受け入れるように執り成す務めがあります。イスラエルを祝福することで、世界の教会は御霊によって一つにされていくのです。
キリストのからだのかかとが堅く立つと、かしらなる主イエスが、再び地上に来られるのです。