ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

贖いによって聖とされる神

 

 イスラエルはシティムに留まっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらなことをし始めた。

 娘たちは、自分たちの神々に生贄をささげるのに、民を招いたので、民は食し、娘たちの神々を拝んだ。

 こうしてイスラエルは、バアル・ペオルを慕うようになったので、主の怒りはイスラエルに対して燃え上がった。

 主はモーセに言われた。「この民のかしらをみな捕えて、白日のもとに彼らを主の前でさらし者にせよ。主の燃える怒りはイスラエルから離れ去ろう。」

 そこでモーセはイスラエルのさばきつかさたちに言った。「あなたがたは、おのおの自分の配下のバアル・ペオルを慕った者たちを殺せ。」

 モーセとイスラエル人の全会衆が会見の天幕の入口で泣いていると、彼らの目の前に、ひとりのイスラエル人が、その兄弟たちのところにひとりのミデヤン人の女を連れてやって来た。

 祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスはそれを見るや、会衆の中から立ち上がり、手に槍を取り、そのイスラエル人のあとを追ってテントの奥の部屋に入り、イスラエル人とその女とをふたりとも、腹を刺し通して殺した。するとイスラエル人への神罰がやんだ。

 この神罰で死んだ者は、二万四千人であった。

 主はモーセに告げて仰せられた。

 「祭司アロンの子エルアザルの子ピネハスは、わたしのねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとしたことで、わたしの憤りを彼らから引っ込めさせた。わたしは、わたしのねたみによってイスラエル人を絶ち滅ぼすことはしなかった。

 それゆえ、言え。『見よ。わたしは彼にわたしの平和の契約を与える。これは、彼とその後の子孫にとって、永遠にわたる祭司職の契約となる。それは彼がおのれの神のためにねたみを表わし、イスラエル人の贖いをしたからである。』」(民数記25:1-13)

 

 モアブの娘たちの神々を拝むイスラエル人にねたみを起こされた神。神は、イスラエル人に言っておられました。

 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

 それらを拝んでもならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト記20:2-6)

 

 祭司の子ピネハスは、神のねたみをイスラエル人の間で自分のねたみとし、みだらな罪の只中にあるふたりを刺し通して殺しました。今で言えば、殺人罪で逮捕される事件ですが、これは、神から出たことでした。神のねたみを自分のねたみとしたのです。ピネハスは、神の憤りをもって神に逆らう者を罰したのです。

 

 ピネハスの行為は、神の憤りを引っ込めさせて、イスラエル人への神罰を止めました。ピネハスが神のねたみを表わし、イスラエル人が犯した罪の贖いをしたからです。

 

 神の神罰は始まっていました。すでに、神罰によって二万四千人のイスラエル人が死んでいました。ピネハスの行ないは、神の憤りを引っ込めさせて、神がイスラエル人を絶ち滅ぼすことから守りました。

 

 神は、ピネハスを祝福されました。ピネハスの殺意は、聖絶のためでした。神の憤りがピネハスを動かしたのです。神のねたみを自分のねたみとして、イスラエル人の間で、罪に定められた者を取り除き、イスラエルの聖を守ったのでした。

 

 人が神のねたみを自分のねたみとして聖絶するならば、神の神罰は止みます。聖絶はイスラエル人の贖いのためです。

 

 人道的にみるならば、「殺してはならない。」という戒めを破ったピネハスの罪に思えます。しかし、神はピネハス以上に憤っておられたのです。

 

 「神の人」の執り成しによって、神の憤りは思い直されています。イスラエル人が金の子牛の像を造り、神に罪を犯したとき、モーセは、「イスラエル人の罪をお赦しくだされるものなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物(いのちの書)から、私の名を消し去ってください。」と神の憤りの前に立ったのです。

 

 神の怒りがイスラエル人に向かって燃え上がって、神がイスラエル人を絶ち滅ぼそうとしておられたのですが、モーセの嘆願によって思い直されました。そして、神は言われました。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。」

 

 神が遣わした神の御子イエスを罵り、十字架につけて嘲るユダヤ人に対する神の怒りは燃え上がりました。神の憤りを知るイエスは、父に祈りました。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

 まことの神は、罪に贖いを要求される、聖なる神です。神の怒りは、聖絶によって収められました。そして、終わりの時代は、神の子羊イエスの贖いによって、罪を赦すことを定めておられます。