ふしぎないのち

神が働く不思議な体験

聖絶の神

 

 「万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、イスラエルがエジプトから上って来る途中、アマレクがイスラエルにしたことを罰する。

 今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も子どもも乳飲み子も牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」(サムエルⅠ 15:2,3)

 

 聖絶は神の命令でした。旧約聖書には、聖絶の命令が何度も出て来ます。イスラエルの神は、聖なる神なのです。御自分の民(イスラエル人)でさえ、絶ち滅ぼされます。

 

 イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えた。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主がイスラエル人に与えると彼らの先祖たちに誓われた地(カナンの地)、乳と蜜の流れる地を、主は彼らには見せないと誓われたからです。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされました。(ヨシュア記5:6,7)

 

 モーセがホレブの岩を二度打ったことで、主の怒りを買いました。それで、主はモーセとアロンに言われました。

 「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前で聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

 

 イスラエル人が主と争い、メリバの水のことで、アロンとモーセは神の命令に逆らった、と言われたのです。アロンとモーセは、出エジプトのために神に仕えたしもべです。イスラエルの民は、アロンとモーセという指導者によって、奴隷の家エジプトから解放されて約束の先祖の地に導かれました。神は、不平不満を言うイスラエル人だけではなく、アロンとモーセまでも、先祖たちに誓われた地に入らせない、と言われたのです。

 

 モーセは、イスラエル人が金の子牛を造って神を怒らせたとき、いのちの書から自分の名前を消してくださって構いませんから、イスラエル人の罪を赦してください、と執り成した人です。それでも、神は、モーセをカナンの地に入らせませんでした。

 

 モーセは主に懇願して言いました。「どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見せてください。」しかし主は、イスラエル人のためにモーセを怒り、モーセの願いを聞き入れられることはありませんでした。

 

 そして主はモーセに言われました。

 「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに行ってはならない。

 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。

 ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ。彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」(申命記3:25-28)

 

 エジプトから出て来た成人のうち、神の従い通したヨシュアとカレブだけがカナンの地に入ったのです。神はモーセに代わって、ヨシュアを立てられました。

 

 神を聖としない者は、たとい神のしもべであっても赦されないのです。神の民は聖なる者でなければなりません。また、神を聖としなければなりません。

 

 主はヨシュアにエリコを渡されるとき、「町の周囲を一度回り、六日そのようにし、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。」と言われました。

 

 七度目に祭司たちが角笛を吹いたとき、ヨシュアは民に言いました。「ときの声を上げなさい。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。この町と町の中のすべてのものを、主のために聖絶しなさい。あなたがたは、聖絶のものに手を出すな。聖絶のものにしないため、聖絶のものを取って、イスラエルの宿営を聖絶のものにし、これにわざわいをもたらさないためである。」(ヨシュア6:2-18)

 

 聖絶は、主のためです。聖い神にふさわしくないものを取り除いて、聖とするためです。聖絶するものを手に取るならば、イスラエルが聖絶のものとなってしまうと言うのです。聖絶しなければならないものをイスラエルの中に入れるならば、神の民であるイスラエルまでもが聖絶の対象になってしまうとは、何と言うことでしょう。

 

 神は、彼らの父祖アブラハムと契約を結んで仰せられました。

 「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの皮から、あの大川、ユーフラテス川まで。ケニ人、ケナズ人、カデモニ人、ヘテ人、ペリジ人、レファイム人、エモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人を。」

 

 また、アブラハムの子孫が四百年の間奴隷とされ、苦しめられ、四代目の者たちが、ここに戻って来ることも、仰せられました。それは、エモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである、と言っておられます。(創世記15:13-21)

 

 神は咎の満ちた者を聖絶されるのです。悪い者だから、取り除かれるのです。また、神が聖絶するように命じられた者と交わる者は、イスラエル人であっても、神に聖絶の者とされてしまうのです。

 

 神は、イエス・キリストによって、御自身の愛を現わされました。愛の神です。しかし、聖なる神でもあるのです。

 

 「わたしはあなたがたの神、主であるからだ。あなたがたは自分の身を聖別し、聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」(レビ記11:44)

 

 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ記19:2)